このさい、個人的感情なんかは、斟酌するわけにはいきません。当たりまえの話ですよ。だから、この件についてこれ以上すこしでも議論をすることはお断りします。
☆個人的な感情など、氏族への顧慮などは取り除くようになるでしょう。理解し得ることです。それゆえ、少しでも核心に触れることはありません。
『初期彫刻/Early Sculpture』
1-1-2 Untitled 1957
初期の作品は直線ではなく球体である。
凝縮、説明のつかない曖昧さ、しかし厳然と存在するものである。球体に近いものは宇宙において自然に形成される形態である。
在ることの原初、自分に対峙するもの、等しく見つめ得るもの。
凸凹があり、各所に連続した丸い穴が任意に開いている。この空洞は何だろう。整列には規約の意があり、社会性など人為的なエネルギーの集約にも見える。感想は重複してそれを受け入れる態である。
完全な球体ではなく歪んでいる(ごく自然態である)、故にこの物の重心は一つしかなく回転を余儀なくされることはない。この物には焦点はなく距離(空間)はこの物の中で完結してしまう。つまり対象を見るという眼差しではなく、自己内部の主観的な景色である。
確率の高い安定ではなくむしろ不安定で曖昧な立ち位置を死守しているとさえ言えるが、転がしても再びこの位置に戻るに違いないと思われる。
彫刻とは見える対象の具現化(抽象をも含めて)であるが、この場合、精神、内的感情空間の具現化のような気がする。
強いて言えば、世界は表裏一体である。
1-1-1 Untitled
写真は『若林奮 飛葉と振動』神奈川県立近代美術館より
「いや、そのことではないんだ。たゞたべるのかときいたんだ。ではたべるんだな。ちょっと待てよ。その腹の悪いこどもへやるからな。」
ゴーシュはセロを床へ置いて戸棚からパンを一つまみむしって野ねずみの前へ置きました。
野ねずみはもうまるでばかのやうになって泣いたり笑ったりおじぎをしてから大じさうにそれをくはへてこどもをさきに立てて外へ出て行きました。
☆字に複(重なるもの)を和(調合する)章(文章)である。
質(内容)の個(一つ一つ)には法(神仏の教え)が逸(隠れている)也。
繕(つくろう)質(内容)也。
究める照(あまねく光が当たる=平等)がある。
律の我意を推しはかる講(話)である。
わたしが聞いたところでは、あなたは、この女と同棲しているそうですね。だったら、この女がすぐにもどれるようにしてください。
☆あなたは、自由と共に生きている。ゆえに直ちに自由がもどるように指示してください。