続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『鎌倉館からはじまった。』PART1

2015-04-27 06:32:55 | 日常
 神奈川県立近代美術館の館長さんのお話が聞けるというので行ってみると、かなりの人数。わたしが近づける距離ではない。遠巻きにそれとなく伺っていたけれど、この一年をもって閉館を余儀なくされるこの鎌倉館の成り立ちや設計などを詳しく説明しているようだった。
 人の持つ生理的慣習に沿った空間配慮や建物自体が八幡宮という神さまのエリアに所属していることの無二の立地についてなどは(なるほど・・・)と感じ入ってしまった。
 展覧会というものが、作家と美術館員たちとの競作であり、作家の視点を非常に大切に為される仕事なのだと知った。数年も前から準備すると聞いたこともある、密な打ち合わせがあると同時に、作品数の過多には把握が困難な場合も生じてしまうという裏話なども聞くことができた。

 館内の展示は、朝井閑右衛門『電線風景』清宮質文『夕日と猫』李禹煥『項』など等・・・語りつくせないほどの作品群。(この次ぎ会えるのは何時かな・・・)

 ・・・生活に追われ、美術館というものが視野になかったわたしの人生。それでも、鎌倉館が閉鎖になると思うと寂しさは募る。
『さよなら』・・・まだ、さよならじゃない・・・でも、お別れの日は刻々と近づいている。

 水沢勉館長さんの熱心なお話、ありがとうございました。

『冬のスケッチ』95。

2015-04-27 06:27:23 | 宮沢賢治
        *
  川瀬の音のはげしいくらやみで
  根子の方のちぎれた黒雲に
  むっと立ってゐる電信ばしらあり。


☆千(たくさん)の施(恵み与える)が隠れている。
 混ぜている詞(ことば)の法(手だて)を告げる。
 運(めぐりあわせ)の律を伝え、審(正しいかどうか明らかにする)。

『城』1949。

2015-04-27 06:14:05 | カフカ覚書
あのときは、お内儀さんの言うことがどれもそれほどあさましいものとおもわれ、わたしたちふたりの仲がどうなっているか、まるでわかってくれていないように感じられましたの。むしろ、あのひとの言ったことの正反対のほうが正しいような気がしました。わたしは、ふたりが最初の夜をすごしたあとのもの悲しい朝のことを思いだしました。


☆彼女がわたしに言った死は非常に痛々しいものでわたしには分からず、全く逆なほうが正しいと言うのです。わたしは、わたしたちの禁錮の死の小舟である殺害には反対の意思です。

マグリット『人間嫌いたち』

2015-04-26 06:32:15 | 美術ノート
 カーテンの林立。もちろん非現実、イメージの世界である。
 地平は低い、カーテンは巨大なまでに空に伸びている、しかもカーテンの材質を拒否した形態である。確かにカーテンは吊り下げられてこのような形態を保つが、カーテン自体に立ち上がるような生体機能はない。
 この林立は魂を持ち闘争的でさえある雰囲気を漂わせている。並べてこちらに向かい、足音が聞えそうなほどの圧迫感がある。
 空は曇天、陽は射さず暗雲が立ち込めている。しかし嵐の予兆というのでもなく日常的な不安・不吉の外気である。

 『人間嫌いたち』という題名。人間嫌いはどこに?
 通常、作品のテーマは作品の中にある。この林立のカーテン(複数)は擬人化されたものなのだろうか。
 カーテンの特質を考えてみると、閉じるものであり、隠すものであり、隠れるものでもある。カーテンはタッセルが掛けられ開いている。(もしタッセルが無い場合、カーテンとは認識し難い)
 ほんの少し開いているカーテンの林立ということが妥当だと思う。

 人間嫌いたちの心理・・・少し開いたカーテンの隙間から外界を覗く。ずっと遠くまで幾重にも張り巡らした心のバリア(カーテン)、天にも届く高さである。しかし、全くの孤立や厭世主義でもない。世間との交流は図りたいが、オープンなお付き合いは遠慮したい。人間嫌い(世間に不信を抱くもの)としては、少し開いたカーテンの隙間から世間を覗くことで精一杯である。

 作品の主題である人間嫌いたちは、作品の外に存在する不特定多数である。
《人間嫌い、それは、わたしである》とマグリットは苦笑する。自分を含む人間嫌いたちの心理は正にこの通りである。(写真は国立新美術館『マグリット展』図録より)

『城』1948。

2015-04-26 06:12:44 | カフカ覚書
わたしは、お内儀さんを尊敬しているので、これまでどんなことでも聞いてきました。しかし、わたしがお内儀さんの意見を頭から拒否したのは、あのときが生涯で初めてでしたわ。


☆わたしは言葉に敬意を抱いているので、どんなことも傾聴してきました。でも、わたしがその意見の総てを完全に拒否したことは最初の出発点でした。

マグリット『記念日』

2015-04-25 06:48:26 | 美術ノート
 室内いっぱいに置かれた岩石。
 入れること自体に無理がある、岩石の重さを想像したなら床さえも抜け落ちてしまう、そういう巨大な岩石である。

 ・・・のように見える。

 部屋はミニチュアだろうか、岩石は拡大鏡で描いた物だろうか。
 岩石は異質な模造物である可能性も否定できない、たとえば立体を持たない単なる一枚の描かれた絵であるとか。

 しかし、ここではあくまで部屋いっぱいの動かしがたい巨大な岩石としての提示、主張である。
 部屋という人間の英知の結集に、岩石という自然の無機物が等しい大きさをもって存在している。岩石を『無/無意味』といえば、有機質である人間の空虚の暗示になる。人が持つと想像している英知は、人が抱え持つ空虚の質量に等しいということかもしれない。

 地球はいわば岩石の塊であってみれば、部屋に象徴される英知など、一溜まりもなく崩壊されてしまう。鑑賞者は目の前の巨大な岩石に対し畏怖の念を抱かざるを得ない。岩石に襲われたら人は死を免れないが、人の英知が岩石(災害)を取り込むことが可能ならと、希望的観測を図る。

 岩石に象徴される自然(地球)と、部屋に象徴される英知(人類)との引くに退けない闘いである。しかし、岩石の持つ億年の歴史と人類の浅い夢の結晶は闘う以前の問題かもしれない。にもかかわらず、人は挑み続けている。


 部屋(人間の英知)のなかの巨大な岩石(自然もしくは大地/地球)は、鑑賞者に問う。
《お前たちは何ものぞ》と。
 人類の英知が岩石(自然)への脅威を取り込んだと(あるいは同等だと)錯覚した時代への警告!その記念日ではないか。(写真は国立新美術館『マグリット展』カタログより)

『城』1947。

2015-04-25 06:23:14 | カフカ覚書
「きみの話を聞いていると、きみの意見なのか、お内儀さんの意見なのか、かならずしも区別がつかなかったよ」
「あれはお内儀さんの意見ばかりでしたわ」と、フリーダは答えた。


☆あなたの報告を聞いていると、あなたの信念か言葉としての意見なのか、先祖の死における説の差別が分からなかった。「あれは言葉の上の説ばかりです」とフリーダ(平和)は言った。

マグリット『青春の泉』

2015-04-24 06:46:28 | 美術ノート
 鷲だろうか、嘴の先が違うのではないか。怖ろしい形相、肩の厳つさは鷲を想像させるが、これは『鳩』だと思う。
 並んで描かれたのは、『オリーブの葉』。

 ノアが水がひいたかどうかを見ようと放った『鳩/はと』であり、そのくちばしには、オリーブの若葉があったという。
 マグリットはその鳩を描いて『大家族』と名づけたが、鳩がオリーブの若葉を持ち帰り地が乾いたのを知って、神はノアとその子らを祝福して彼らに言う。
「生めよ、ふえよ、地に満ちよ・・・」
 ここから世界の大家族が始まったのだとマグリットは解釈したのではないか。


 その「鳩とオリーブの若葉」である。
 しかし、鳩はオリーブにそっぽを向いている。オリーブの若葉の否定である。
 石化ということは、永遠の死を意味している。石碑には「葦」を意味するフランス語が書かれているという、つまりは「英知の死」である。空は赤く染まり、怒りや怒号のような彩色は戦火をも思わせる。どちらにしても不安・不吉を象徴している。背後の巨大な鈴はにこやかに笑っているとさえ見える穏やかさである。鈴は人心を揺らすもの、掻き立てたものは何だったろう。
 私的解釈としての鈴は世間一般の風評、噂、流言ではないかと思っている。そして、右のオリーブの葉と共にこの石碑の背後にあるということは、つまりは否定の暗示である。ここに説明はなく、存在があるばかり。しかし、この沈黙は有言を秘している。

 廃墟のような地平に、「人間は考える葦である」という「葦」と書かれた墓標が過去の遺物のように刻まれている。ここに大家族は費えたという未来の恐るべき予言なのだろうか。鳩がオリーブを咥えて戻った聖書の逸話自体の否定なのだろうか。
「青春の泉」(The Fount of Youth)・・・地平は漠とし荒涼としている。「ROSEAU」という文字をを刻んだ石碑の鳩はオリーブに背を向け、巨大な鈴(世俗)を押さえている。
「ROSEAU」を胸に刻んだ《考えよ、さらば(未来は)開かれん》というメッセージを秘めた暗示とも思える。否定ではなく、思考/英知への大いなる肯定ではないか。新しい未来は必ずや沸くように出でるであろうと・・・。(写真は、国立新美術館「マグリット展」カタログより)