続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『冬のスケッチ』9 。

2015-04-24 06:37:43 | 宮沢賢治
       *
  黒くもの下から
  少しの星座があらはれ 橋のらんかんの夢、
  そこを急いで その異装束の
  脚の長い旅人が行き
  遠くで川千鳥が鳴きました。


☆告げる戒めは衝(重要)な精(こころ)である。
 座(星の集まり)の況(ありさま)は夢(空想)を究(突きつめて)告げている。
 総ては則(道理)による規約の重なりだと慮(思われる)。
 図りごとの講(はなし)を掩(隠し)遷(うつりかわるようん)宣(のべている)。
 懲(過ちを繰り返さないようにこらしめる)冥(死後の世界)である。

『城』1946。

2015-04-24 06:23:40 | カフカ覚書
 Kは、緊張し、口をすぼめて、じっと耳をかたむけていた。彼の下にある薪の山が、ごろごろとくずれだして、あやうく尻餅をつくところだったが、まったく意に介しなかった。彼はやっと立ちあがると、教壇に腰をおろし、フリーダの手をとった。フリーダは、その手を弱々しく引っこめようとした。Kは言った。


☆Kは緊張して聞き入っていた。地獄へ転がり落ち荒地へ滑り込むところだったが、全く気にしていなかった。禁錮の境遇で二重に仮定していたことだった。フリーダ(平和)は国(地方団体)の占領から恥辱を遠ざけようと試み、そして言った。

一人で行かれた六本木。

2015-04-23 09:16:19 | 日常
 三浦半島というより近所をうろうろする以外はどこへも出かけないわたし、東京はあまりにも遠い。けれど、マグリット展だけは見たい、見ておきたい、会いたい・・・切なる願いを打ち消すことができない。

 行きたいけど行かれない、六本木なんてTVの中でしか見たことがない・・・どう行けば行かれるの?子供ような問いを毎日繰り返した。

「よしっ、今行かないで、いつ行く?」「今でしょ」(う~ん、それでも行かれない躊躇)

(こんなんじゃ死ぬまで行かれないね)わたしの中の誰かが冷たく言い放つ。
「行きますとも!」

 国立新美術館を地図で確かめ、京急の時刻表を見て、さぁ、家を出たからには行くしかないと覚悟を決めた。
 北久里浜で駅員さんに
「ええと、大門へはどう行くんですか?」
「このまま都営地下鉄浅草線に入りますから大門で降りてください」(ええっ、そうなの。子供みたいなこと聞いちゃって)
「で、六本木へは?」「大江戸線に乗り換えて下さい」

 その通り行ったら超簡単、美術館通りを抜けて《着きました、在りました。国立新美術館!》

 館内に入って安心した途端「トイレはどこ?」
 見終わって帰ろうとしたら「降り口はどこ?」
 突然上京した地方丸出しのオバサン、情けないやら恥ずかしいやら。でもゲットしました『マグリット展カタログ』宝物です。

 嬉しくて枕元に置いて眠りたいぐらいでした。(やったね!)

マグリット『ゴルコンダ』

2015-04-23 06:56:53 | 美術ノート
 この作品は凄い、ある意味、空間への挑戦であり発見である。

 一見整然と、ある規則性をもって配置されているように見える人物。平面の持つ特性を駆使しているこの作品に戦慄・恐怖の念に襲われた。マグリットは鑑賞者がそうはならないように、きわめて冷静に驚愕しないように描いている。もっとも人間が空に浮遊していれば驚かない人はいない、しかも群像であってみれば。ただそれ以上の感情に至らないような配慮が為されていると言うことである。


 それぞれ異なるかもしれない酷似した匿名のそれなりの資格を有した人物が交錯した斜線上に並んでいる。それはざっくり見ると、大中小の三パターンのように見えるし、事実そう見えるように描いている。
 しかし建物に映る人物の影を凝視すると、同じ面上に並んでいると見える同じ大きさの人物は、建物との距離に差異があることが分かる。距離に差異があって同じ大きさということは、人物のどちらかが異常に大きいか、極小であるかということである。

 そして、この建物の前に居るのなら、その影は同じ方向であるはずである、太陽(光源)は遥か遠いのだから。ということは建物の前に並んだように見える紳士たちにも、それぞれ建物との距離に差異があるということであり、人物の大きさは想像を絶するほどにも差異があるということである。

 人物の向く方向が正面だったり左右だったりするので、納得する向きもあるけれど、視点は一つであれば全く平行には並ばないはずである。空に浮かぶ人たちが全くの平面上に見えるということは、ぐるり円形に位置していなければならない。しかも建物の前で判明したようにこの平面画面を立体的に解釈し直すと、極大・極小の紳士の群像である。映画『ゴジラ』をも上回る驚愕と戦慄がある。軽い眩暈どころか卒倒するような光景である。


 紳士たちに羽はなく浮遊の姿態でもない、彼らは直立している。降る雨の如くいずれ落ちてくるのだという落下のイメージ(観念)は消せないが潜在意識の中でそれを止める作用が働く、これは空想なのだと。
 空に人が浮いている不思議な光景は寓話のようである。しかし恐怖をさえ秘めたこの光景の、静謐な凄まじさに心服せざるを得ない。(写真は国立新美術館/マグリット展カタログより)

『冬のスケッチ』91。

2015-04-23 06:50:29 | 宮沢賢治
  いてふのこずゑのひざしつくづく
  天かけるゆげむら
       *
  外套を着て
  家を出ましたら
  かにすまぞあばかり
  きれぎれのくろくもの
  中から光って居りました。


☆展(拡がる)我意、等(平等)を惹きつける気(様子)を推しはかる。
 自由な講(はなし)の考えである。

『城』1945。

2015-04-23 06:25:48 | カフカ覚書
そして、あなたは、この所有物をまったく無価値なものとしてしか扱ってくださらないでしょう。だって、あなたは、わたしにたいして所有者としての感情しかもっていらっしゃらないんですもの」



☆そしてそれは先祖の所有として価値のないものであり、虚報(デマ)として取り扱うでしょう。だって、あなたはわたし(平和)に対して所有者としての感情しかもっていないからです。

金山康喜《静物〔ロウソクのある静物〕》

2015-04-21 06:58:00 | 美術ノート
 ロウソク・・・ほんの少しロウが垂れている。一度は着火したということである。真直ぐ立っているが、燭台の脚はどう確かめてみても三本しかない。不安定であるが辛うじて直立しているのか、立つはずのないものを立たせて描いている架空の構成に疑念を挟む余地はない。

 金山作品は錯視を巧みに計算しているので、騙されて見る心の揺らぎが正当な鑑賞なのだと思う。その手法を見抜くことは、むしろ正当性を欠く失礼な行為かもしれない。しかし、その上で存在の危うさに対する哀愁は大きく鑑賞者の心を動かし暫し動けないほどの引力を内包している。作家も深い思索の果てに見つけた構成であり、自身が作品を説明するような秘密漏洩は無かったと思われる。

 しかし意図がある以上、作家に寄り添い凝視すれば自ずと見えてくる。
 静物、静物と念を押すような題名、つまりは静物ではないのである。静かに収まるオブジェではない。すべてが倒壊、崩壊の危機に瀕している。
 ロウソクに然り、黄色いマグカップに然り・・・底の面積の過少は大きく不均等な上体を支えられない。
 手前の青いビンの蓋はあたかも帽子のようでもあり、その光景を見つめる作家自身のようでもある。

 黄色いマグカップの豊満はロウソクに歩み寄っている。火を落としたロウソク、そしてその燭台の持ち手は黄色いマグカップを払う・・・いえ、払えないどころか、こちらも歩み寄っているようにも見える。二つの関係/二人の関係は終わってしまったのか、これから始まる予感の光は見えない。

 金山作品にはそこはかとない色気がある。醒めているのに甘い香りが漂う。(写真は神奈川県立近代美術館カタログより)

『城』1944。

2015-04-21 06:34:34 | カフカ覚書
と言いますのは、そうなっては、わたしは、あなたがいつまでも頼りになさるあなたの唯一の所有物になってしまうからです。しかし、同時にそれは、すでに一文の値うちもないとわかってしまった所有物にすぎません。


☆というのは、わたしがあなたを指図しつづけると、あなたのものになってしまうからです。けれど、同時にその指図は価値がないと分かってしまった価値にすぎません。

古布再生。

2015-04-20 06:52:38 | 日常
 古布の再生・・・、日常着だった着物や冠婚葬祭などの着衣として大切に収納されていた絹織物。平成の今では着ている人を見ることは珍しくなってしまった。

 生家が農家だった知人は「戦中は食料と交換した着物が部屋に積まれていた」と話し、「だからわたしの嫁入りは金襴緞子だったわ」と笑った。
 わたしが子供の頃は母親の外出着は着物だったし、義母などはわたしが嫁いだ頃も着物でいることが多かった。けれど、和服は洋服に比べ不自由であり着衣のプロセスが複雑である。簡便な洋服は時短であり手に入れやすい。
 それやこれやで箪笥の奥深く眠ったままの着物は全国各地、数知れず。

 洋服地の幅は広い(90センチ幅からダブル幅まで)けれど、着物地は35センチ。ちょっと不都合である。
 しかし、
《活かすべき》と始めた洋服への仕立て直しは近年静かに流行っている。専門店もあれば、サークルでの指導などもあり、日本の財産とも言うべき古布は再生へと甦りつつある。

「捨ててしまっては勿体ないですもの」「ほんとうに」「でもハサミを入れるときはちょっと躊躇うわね」
「昔の物は、質がいいのよ」
「これからの若い人は、仕立て直しなんかやらないわね。」
「残しても処分されるだけなら、わたし達が使わせてもらうしかないわ」
「そうね、見える限りはがんばりましょう」


 と言っても、わたし自身はこの会話のサークルに所属しているわけではなく、一年一度の合同展で顔を合わせるだけのお付き合い。けれど縫い物が好きだから、つい仲間入りのおしゃべり。
 絵の方はね、ちょっと淋しい。
(それでも。見える限りはがんばりましょう)

 三日間にわたる作品展も終了。解放された今朝はちょっとだるい。でも《さぁ、やるぞ!》って虚勢を張り自分を鼓舞している。