そうです、そういう経緯があって、わたしは、この酒場にまわされました。きょうから四日前の午前中からです。ここの仕事は、らくではありません。ほとんど殺人的な仕事と言えるくらいです。しかし、ここで手に入れることができたものも、けっして小さくありません。
☆そうです、日食を内密に理解し、この酒場(死の入口)に来たのです。ここでは現場不在のための小舟は容易ですが、ほとんどの先祖は現場不在であり、小舟ではありません。
対象物はすべて立体(三次元)を想起させるが、大ガラスの平面に直線的に納められている。そして、それぞれは時間の経過を孕んでいるが、面(二次元)に収縮させることで、閃光めく一瞬に凝縮される。それは、現象の一刹那としての提示にほかならない。
しかも、これらは崩壊へと辿らざるを得ない構築(仕掛け)である。実に緻密で大胆な展開を見せる作品に驚嘆を隠せないが、大いなる否定(絶望)への反感を試みざるを得ないという背反が厳然としてある。
作品は(大ガラス)ゆえに、作品を通して向こう(現実)が透けて見える。
平穏なこの空気の中の虚無の鋭利は、鑑賞者を黙って見ている。鑑賞者は黙って見られている事実に気づくが、対処の術は永遠の問いでもある。
写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク www.taschen.comより
色々の古い事や友の上を考えだす。その時悠然として僕の心に浮かんで来るのは即ちこれ等の人々である。
☆嘱(委ねた)私記は個(一つ一つ)の字で幽(死者の世界)の状(ありさま)を構(組み立てている)。
字で幽(死者の世界)と漸(しだいに)の睦(仲よくする)。
普く磊(小さなことにはこだわらない)。
審(正しいかどうかを明らかにする)は、即ち問うことであり、認(見分けること)が腎(重要)である。
わたしは、その犠牲になったのです。そしてなにもかもばかげたことで、すべてが失われてしまいました。この縉紳館に火をつけて焼きはらう、それも、跡形も残らないほど根こそぎに焼きはらってしまえる力をもった人がいたら、きょうからは、その人がわたしの選ばれた人です。
☆わたし(ペーピ)は犠牲です。全くバカなことでまったく絶望的です。この大群のいるハロー(光輪)に火をつけてすべて焼いてしまう。あとに残る小舟も焼き払います。先祖の文書からの解放はわたしの選択です。
デュシャンは常に《時間の経過における現象》を念頭に入れている。時間と空間の行き着く先、未来というにはあまりに悲観的な崩壊感覚である。しかし、それはあくまで未来への危惧を含むものにすぎず、現今の奇妙に居心地の悪い冷静さで対象物(モチーフ)の主軸をそっと抜いている。
つまり欠損である。永遠の非生産性は消費を可能にせず、未来への連鎖を否定している。見えない死が内在する。
作品に救済を求める傾向は見当たらない。今在る現況の警告とも受け取れる作品は、しかし沈黙を貫いて核心を隠蔽している。人を恐怖に陥れるものに「地獄絵」などがあるが、具体性さえ超越し、秘密を漏らす針の孔さえ隠している。
喜怒哀楽の感情、真善美などという気どりは、ここには無い。
(大ガラス)のヒビに気づいて危険を感じるかもしれない。物理的な危険の察知、しかし、この作品の内実は次元の異なる恐怖を秘めている。
《今は何でもない=平和である》、鑑賞者の安息。そして、むしろこの作品の奇妙な盛り合わせは嘲笑に値するかもしれない。しかし、嘲笑されているのは鑑賞者かも知れないという命題である。
写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク www.taschen.comより
その時僕の主我の角がぽきり折れて了った、何だか人懐かしくなって来る。
☆弐(二つ)の目(観点)の趣(考え)がある。
我(わたくし)が書く説(話)は霊(死者の魂)を化(教え導くこと)であり、腎(重要)なのは、皆(すべて)磊(小さな事にこだわらないこと)である。
なにを求めていらっしゃるのでしょう。あなたがすっかりこころを奪われて、いちばん近くにあるものを忘れしまっていらっしゃるのは、どんな重要なことがおありなのでしょう。
☆仕事に没頭し、いちばん近くいちばん善いものを大切にすることを忘れてしまうなんて、どんな重要な方向性があるのでしょうか。
これら大ガラスに閉じ込められた対象物(作品)は、重力下において落下すべき物体である。しかし、中空に漂っている。意味ありげ、即ち鑑賞者がどこかで出会ったことのあるような形態に近似しており、不可思議ではあるが了解し得ると納得を可能にしてしまう対象物なのである。
しかし、端的に言えば《ガラクタ》である。機能性を持たず生産性にも抵触しない。鋳型は雄である証明を持たず、内部は不明である。花嫁は地上に立つ存在感がなく浮上する落下物の刹那であり、チョコレート粉砕機は、以って非なるものを捻出している・・・大ガラスに収められたそれぞれは本来全てその形態を留めるものではない。これら集合体に必然性は皆無であり、強いて言えば偶然でもない。
《必然でも偶然でもない》そんなものはこの世に存在しない。思考(空想上)の無を、《言葉と物》によって造り上げている。この経由を辿らない限り、見えてこない《無の現象》である。
存在しているのに、非存在という答えを待つ作品である。
写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク www.taschen.comより
「そこで僕は今夜のような晩に独り夜更けて燈に向かっているとこの生の孤立を感じて耐え難いほどの哀情を催して来る。
☆目(観点)は魂也。番(組み合わせて)読む也。
講(話)を套(被う)考えの章(文章)である。
故に、律は換(入れ替える)譚(話)である。
納めたものは相(二つのものは同じ関係にある)。
状(ありさま)は差異に頼る。
ところが、こと志とちがってしまったのです。これは、だれのせいでしょうか。とりわけあなたのせいであり、さらには、もちろんフリーダのずる賢さのせいもあります。しかし、まず第一には、あなたのせいですわ。と言いますのは、あなたは、なにを望んでいらっしゃるのでしょう、なんという変わった人でしょう。
☆しかしながら、違っていたのです。誰の責任でしょうか。すべてはKであり、明らかにフリーダの動きのせいです。あなたは何を望んでいるのですか、奇妙な人ですね。