(以下は、ミクシイブログのコメントへの返信です。)
ヨッシーさん 2008年10月12日 13:41
亡父(10月1日死去)にも私にも浄土真宗の仏教的世界はずっと親しいものでした。それは、慣習と重なる自然な感情です。「死」は、人を覚醒させ、深い想いを生み、生を強くします。日本の仏教は、「葬式仏教」と悪口を言われますが、わたしは、宗教としては、それが一番よいと思っています。
生(現世)を縛る強い宗教は、世俗の日々の具体的経験に善美を見、そこに至上の価値を感じる「恋知(哲学)の生」を歪めるからです。余計な解釈抜きに「死」を想うことで日常の生に自覚と輝きをもたらす、そういう感情を宗教的と呼ぶなら、わたしは幼少のころからずっと宗教的人間ですが、それは戒律等によって生に方向性を与える宗教とは異なる宗教ならざる宗教です。あらゆる権威から自由になり、人生を謳歌できるようにしたのが親鸞思想だとわたしは思いますが、以前そのことをブログに書きましたので、よろしければ見てください。クリック『親鸞思想の核心』
タケセン
ヨッシーさん 2008年10月12日 13:41
亡父(10月1日死去)にも私にも浄土真宗の仏教的世界はずっと親しいものでした。それは、慣習と重なる自然な感情です。「死」は、人を覚醒させ、深い想いを生み、生を強くします。日本の仏教は、「葬式仏教」と悪口を言われますが、わたしは、宗教としては、それが一番よいと思っています。
生(現世)を縛る強い宗教は、世俗の日々の具体的経験に善美を見、そこに至上の価値を感じる「恋知(哲学)の生」を歪めるからです。余計な解釈抜きに「死」を想うことで日常の生に自覚と輝きをもたらす、そういう感情を宗教的と呼ぶなら、わたしは幼少のころからずっと宗教的人間ですが、それは戒律等によって生に方向性を与える宗教とは異なる宗教ならざる宗教です。あらゆる権威から自由になり、人生を謳歌できるようにしたのが親鸞思想だとわたしは思いますが、以前そのことをブログに書きましたので、よろしければ見てください。クリック『親鸞思想の核心』
タケセン