以下は、「白樺ML」です。
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なお、哲学・思想の探求を「大学」という閉鎖的な環境(特権意識を育む場所)で行う近代以降の「常識」は、真剣に考え直す必要があると思います。
大学知の特権化、まるで具体的現実の上に「知」があるかのような思い込み(「知の支配」という暗黙の想念)に知的作業に携わる人間が呪縛されている非喜劇は、現実問題を現実的に解決していくことを阻害し、言語遊戯者が偉い!?という酷い観念をまき散らします。
そういう観念につかまると、自分の生活や仕事を踏まえて哲学するのではなく、過去の哲学者(説)についてあれこれ論評することが哲学だという「哲学書趣味」に陥りますが、これでは、現実逃避にしかなりません。あるいは、人が読めない哲学書を読める自分を他に優越するものという歪んだ想念にとりつかれてしまう哲学では、百害あって一利なし、です。
自分の現実を踏まえて自分の頭で考える「健全な精神」を自他の中に育てること、それが核心のはず。
また、「本質言いあてゲーム」に留まることのない能動性=「現実を変えるパワーという『質』をもった思想」を生みだすことは現代の必須の課題でしょう。ほんとうの哲学は、単なる理論・言葉ではなく、結局は生き方の問題に行きつきます。哲学は只の言葉や技術ではないはずです。
武田康弘
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なお、哲学・思想の探求を「大学」という閉鎖的な環境(特権意識を育む場所)で行う近代以降の「常識」は、真剣に考え直す必要があると思います。
大学知の特権化、まるで具体的現実の上に「知」があるかのような思い込み(「知の支配」という暗黙の想念)に知的作業に携わる人間が呪縛されている非喜劇は、現実問題を現実的に解決していくことを阻害し、言語遊戯者が偉い!?という酷い観念をまき散らします。
そういう観念につかまると、自分の生活や仕事を踏まえて哲学するのではなく、過去の哲学者(説)についてあれこれ論評することが哲学だという「哲学書趣味」に陥りますが、これでは、現実逃避にしかなりません。あるいは、人が読めない哲学書を読める自分を他に優越するものという歪んだ想念にとりつかれてしまう哲学では、百害あって一利なし、です。
自分の現実を踏まえて自分の頭で考える「健全な精神」を自他の中に育てること、それが核心のはず。
また、「本質言いあてゲーム」に留まることのない能動性=「現実を変えるパワーという『質』をもった思想」を生みだすことは現代の必須の課題でしょう。ほんとうの哲学は、単なる理論・言葉ではなく、結局は生き方の問題に行きつきます。哲学は只の言葉や技術ではないはずです。
武田康弘