思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「戦前レジーム」の真の克服=公共とは異なる公を認めないことが核心。

2009-07-02 | 社会思想

金泰昌さんの公共哲学(=公と公共の分離の要請)に寄せられたコメントへの返信を記事にします。
わたしの「公と公共の分離―金泰昌さんの公共哲学批判」もぜひご覧下さい。



①「戦前レジーム」(明治政府がつくった近代天皇制)の残滓

わが国における「戦前レジーム」の発生源は、明治時代前半に、自由民権運動を徹底して取り締まった明治政府(山県有朋ら)が、天皇主権の大日本帝国憲法の下で、市民的な公共性を抑え、天皇制国家=「公」に従う臣民としての【公民教育】を、小学校を中心に徹底させたところにある、これは誰も異論を挟めない事実です。

その名残りを、戦後も「官」が引きずってきた現実(それを象徴するのがキャリアシステムであり、そのシステムを支える想念が「東大病」です)が、公共問題を分かりにくくさせているのです。

端的には、有罪率が100パーセント近い検察と司法との癒着関係は、わが国を除き、独裁国家以外にはありませんが、警察や検察の閉鎖的で独善的な組織の実態は、明治以来の旧態依然とした「官」のありようを象徴するものです。冤罪事件が日常的に起きますが(月刊「冤罪ファイル」を参照)、誰も処分されず、足利事件で「異例」の陳謝が行われても、冤罪の被害者の方が深々と頭を下げてしまう現実を見ても分かるように、わが国では依然として「公」と呼ばれてきた「官」が、市民の上位にあるわけです。これが現実です。

だからこそ、公と公共の区分けを要請するような思想(金泰昌さんの公共哲学)は、わが国をその内実において、市民主権の民主主義国家にしていくための「障害」にしかならないのです。ほんらい、民主主義国における「官」は、その仕事の内容も組織運営のありようも、わたしたち市民が考える公共性=ふつうの市民の良識に合わせなければならず、もしそうしないのなら、その存在自体が民主主義の原理に反するわけですから、認められないのです。

※戦前レジーム = 明治政府がつくった「近代天皇制」を指す。天皇主権の国家権力を用いて個人の自由を抑圧し、市民的な公共を国家の公(おおやけ)に吸収して一元管理した戦前の社会体制のこと。


②「公共的」なことは「役所」の専売と思い込まされてきた日本人

日本では戦前の近代天皇制による「国体思想」が長いこと社会全体を支配してきたために、私=個人のことがらに対して、皆に共通することがらは、「官僚政府が行う公」だと思われてきました。先に書きましたように、江戸の庶民文化は民がみずから公共世界をつくっていましたが、富国強兵をめがけた明治の天皇制官僚政治の下では、官府が民の公共を奪い、民の自発性を公に吸収してしまったのです。その結果が「お国のため」という言い方になり、皆のためになることがらを担うのは、すべて官府が行う公=国だ、という想念を国民全体が持つようになったのです。

そうであるために、「市民の意思が生む公共世界」という見方・自覚が弱いのです。だから、金さんの「官が担っている公に対して、市民が担う公共の世界を広げよう」という主張がリアリティを持つわけです。確かに現実の日本社会を見ると、「官」は誰が何を言おうともビクともせず、官僚は決して従来のやりかたを変えようとはしませんから、市民は絶望的になります。そこに公と公共を分けて考える、と言う金さんの主張が「救い」に見える理由があるのです。

しかし、金さんのように現状認識と原理的な思考を一緒にしてしまうと、結局は「現実」を変革する力を持たず、敗北するだけですので、わたしは、金泰昌さんの公共哲学に対して繰り返し批判してきたわけです。

「現実次元」における妥協や曖昧性はものごとを実際的に円滑に進める上で大切ですが、「原理次元」での詰めの甘さや戦略的な妥協は、混乱や停滞を生み、さらには逆効果になってしまいます。いま一番必要なのは、民主主義原理をさまざまな具体的な場において検証し、それによって現実の改革を進めていくことだと思います。その営みは、わたしたち皆が持つ古い考えの変更によって、生のよろこびを広げることにもつながります。

武田康弘

コメント (5)
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