わたしは思います。
民主主義国家であるわが国において、わたしたち主権者の意思を体現する国家権力を用いて、冷静に、理性的に、合法的に人を殺すことが「よい」ことであるはずはないと。
死刑という刑はあってはならないのです。
被害者の遺族は、加害者を合法的に、冷静に、理性的に、「殺す」ことによって、その心が晴れることはないはずです。憎い相手と戦い、直接相手を殺すならば「復讐」にもなるでしょうが、国家というシステム内で間接的に憎い相手を殺しても得られるものは何もないでしょう。
それよりも、われわれ主権者がつくっている国家権力が、冷静に、理性的に、合法的に罪人を殺してもよいという思想は、「代理殺人」の正当化でしかなく、よき秩序(=人間性を豊かに保つ)の形成にプラスに作用するはすがありません。
考えてもみて下さい。
これ以上はなく「冷静」に人を殺す。そういうシステムを内にもつ国家に豊かな人間性が育まれることはないのです。
罪人をどのように見、いかに罰し、どう遇するか、それは、その国(人々)の文化のありようとレベルを象徴するものです。複眼的な見方、豊饒な生、柔軟でしなやかな人間性もつ人々は、単純な「厳罰主義」を選択することはありません。人間性の不可思議、不条理を見つめることのできる心豊かな人間がいなければ、よい国をつくることもできないはずです。
武田康弘