思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「哲学する」ことが可能な人とは?

2009-07-22 | 恋知(哲学)
哲学の土台=自己の存在を見つめ直すという作業は、たったひとりの裸の個人としての「私」の存在について反省することですが、
それを可能にする基本条件は、①生活の困窮から解放されていることと、②固い組織に守られ、高い地位を与えられていないこと、の二つです。

あまりにひどい労働を強いられ、上位下達の中にいては、存在への思いをもつ余裕はありませんが、固い組織の一員として高い社会的身分が与えられ、所得も一般の人以上の額を保証されている人もまた、赤裸々な人間の条件を見据えることはできないでしょう。

哲学者が「お偉い先生」である、とはそもそも概念矛盾でしかありません。したがって、大学教授の職にある人が哲学者であることは、不可能です。

贅沢三昧な生活をしているこどもは別ですが、二つの条件を満たしたこどもたちの多くは哲学者です。しかし、大人で哲学する人は稀です。スくっと立った意識・自由な意識を持ち続けることが、惰性態の中ではできないからです。

固い組織にいる人(大学人・役人・大会社員)に哲学を可能とする唯一の条件は、「改革者」として既存の考え方・既存の組織のありようと闘うことです。ひとり安全・安定の中にいて哲学する(=根源的に考え直す)など、到底ありえません。

哲学がふつうに読んでも分からない理屈の殿堂になり下がったのは、キリスト教という宗教を正当化するために、人心抑圧のイデオロギーとしてつくられた【教会哲学=スコラ哲学】のせいであり、また、18世紀のカントから始まる特権的専門家のための【ドイツ観念論=大学人哲学】のせいですが、これらは、身分・権威が与えられた者がつくった膨大な理屈の山ですので、「固い言語的思考」の次元に留まるほかなかったのです。

自分の存在をよく見つめ、生きるエロースを支え・広げる恋知としてのみなの哲学は、これから始まるのです。心身全体でよく意味を捉え、自問自答と自由対話を方法とする恋知としての哲学=民知は、イマジネーションの働きを核とするのですが、固い言語的思考の抑圧=愚かな権威とは無縁の地平で、野火のように広がるでしょう。

21世紀の新たな文明を象徴するのが恋知であり、民知です。

武田康弘

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コメント

本来の「哲学」とは (荒井達夫)
2009-07-24 10:14:47

本来の「哲学」とは、「自己の存在を見つめ直す作業」、「たったひとりの裸の個人として私の存在について反省すること」、「根元的に考え直すこと」である。

まずは、この簡明な理の確認が重要であると思います。

○○大学教授の立場で哲学する。○○省事務次官の立場で哲学する。○○会社代表取締役社長の立場で哲学する。等々。これらが本来の「哲学」であるはずがありません。これらは、「哲学」という名を借りた専門的知識・経験の収集・整理・発表に過ぎません。

また、日々の最低の食事に事欠き、生きること自体が困難な状況では、自己の存在を見つめ直す余裕などできるはずがありません。

ですから、本来の「哲学」とは、現実具体の問題に直面する人々が、その職業や社会的地位から離れて、一市民・一生活者として、その人生や社会のあり様について深く考えようと努力するときにのみ可能になるのだと思います。

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そう、一生活者としてです。 (タケセン=武田康弘)
2009-07-24 15:08:25

荒井さん、そうですよね。
本を書いたり読んだりすることが哲学することではなく、
有名大学の先生の話を聞くことが哲学することでもない。
経験の自問自答と自由対話こそが核心。
この簡明な原理の徹底した自覚がなければ、哲学すること(=自分自身の具体的経験を踏まえ、自分自身の頭で考え、自分自身のことばで語り合う)は、まったく始まらないのです。
個々人から立ち昇るエロースの生は、恋知としての哲学(=みなの哲学)による、そうわたしは考えています。


コメント (3)
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