思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

お応えー「公共哲学」とは学者が研究するものではありません。

2009-07-07 | 恋知(哲学)
東大出版会・シリーズ「公共哲学」  荒井達夫

日本社会に蔓延する権威主義・序列信仰の想念が、自由闊達な意見交換を妨げる原因となっており、組織の無責任体制にもつながっている、と私は考えています。東大出版会のシリーズ「公共哲学」は、公共哲学における学問的権威を目指したものと言えますが、一般市民からのきちんとした内容評価を伴わなければ、公共哲学の世界における単なる権威主義・序列信仰に堕する危険があると思います。この点、武田さんは、どうお考えですか。(2009-07-05 14:49:31)

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お応えします。 武田康弘

公共哲学という言葉のほんらいの意味は、
この社会・国は、市民である自分たちがつくるのだという自覚を高め、社会・国をどのようにしていったらよいかを、ひとりの市民という立場によって考えるものだ、そうわたしは考えています。

そもそも、どのように生きるのがよいか?という人生問題やどのような社会が望ましいか?という社会問題を、その全体においてイメージし・考えるのは、哲学の仕事であり、したがって専門知ではありません。何事も、全体像(=ありよう)について想い・考えるのは、特定の学問や技術的な知=専門知ではなく、哲学の営みなのです。

ゆえに、それは、学校や研究所で行えることではなく、生活世界―市民社会の現場から立ち昇らせるほかありません。大学内で出来ることではないのです。学校(小学校―大学院)内でしなければならないのは、公共哲学を支える基礎知識の習得と、公共哲学の基盤となる自由対話の訓練です。

公共哲学が未来的な知=哲学であるというのは、それが開かれた市民社会の中でしか行えない営みだからです。その条件(=主権在民の民主主義を原理とするゆとりある市民社会の成立)が満たされないと、はじまらないのです。もう一度言いますが、大学や研究機関の中で行う、というのは概念矛盾であり、それでは全く現実的な意味を持ちません。

大学の教師という職業人も、官僚という職業人も、どのような仕事をしている人もみな、一人の市民という立場・資格により、対等な人間として考え・語り合うという原則が貫かれない限り、公共哲学は成立しませんし、その営みが意味づき、価値づくことはないのです。
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以下は、コメント欄です。

若干の異議 (山脇直司)
2009-07-07 11:03:33

もしそうであれば、「上司」などという反公共的な言葉がまかりとおる国家公務委員機関=官庁のような所でも公共哲学は行えないと強く言ってほしいものです!少なくともリベラルな雰囲気が漂う大学からみても、唖然とするほど権威主義的なにおいがぷんぷん漂っていますから官庁はーーー。大学は、官庁と違って、そのアイデンティティからして、公共空間であることを強調しておきます!
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ひとりの生活者であり市民であること (タケセン=武田康弘)
2009-07-07 16:17:20

山脇さん
コメント、ありがとうございます。
わたしの論の結びは、最後の部分ですが、官僚の権力や大学人の権威を徹底的に払拭し、みながひとりの生活者であり市民であるという立場で考え・語り合うのが公共哲学の要諦だ、というものです。山脇さんもわたしと同じ考えと志をもたれていると思いますが。

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本来の公共哲学とは (荒井達夫)
2009-07-07 22:05:30

山脇さん。

社会的有用性のチェックがないと、学問世界における権威や序列を大学の内外に示すだけになってしまうおそれがあります。公共哲学は「本当は何が大切なのか」を追求する営みであるから、社会的有用性のチェックが特に重要である、というのが私の意見です。

また、キャリアシステムを中枢神経とする日本の官僚機構が、権威主義的で序列信仰に陥っていることは議論の余地がありません。だからこそ、公務員には本来の意味での公共哲学が必要だと考えています。

これに対し、武田さんは、「本来の意味での公共哲学とは、一市民の立場で行うもので、大学人や官僚という職業と切り離して行わなければ、意味をなさない」と言っているのだと思います。




コメント (3)
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