思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

公務員倫理―人事院アンケートー国民全体への奉仕

2009-09-06 | 社会思想

国家公務員の倫理感について、人事院が行ったアンケート(一般職の国家公務員5000人と民間企業2500社の倫理担当者)の結果が4日発表されました。それによると、「国家公務員の姿勢として不足しているもの」としては、公務員自身と民間会社の倫理担当とも、「国民全体への奉仕者という自覚」という回答が最多でした。

その通りだ、とわたしも強く思います。

昨年の1月の参議院調査室主催による『公共哲学と公務員倫理についてのパネルディスカッション』(公共哲学共働研究所所長・金泰昌氏と東京大学大学院総合文化研究科教授・山脇直司と総務委員会調査室次席調査員(当時)・荒井達夫とわたし・武田康弘の4名による)において、わたしは、官を公(おおやけ)と呼び、これと公共(市民社会)を区分けするというシリーズ『公共哲学』(東大出版会)の最高責任者・金泰昌氏の主張を、「主権在民の民主主義原理に反するもの」として厳しく批判しました。主権は国民にあるとする日本国憲法の主権在民の根本理念からすれば、当然のことに、主権者に雇われている国家公務員は【国民サービスマン】であり、したがって、一部の者の利益や各省庁の省益のために働いてはならず、国民全体への奉仕者=サービスマンであるはず、これがわたしの主張だったのです。

ところが、国家公務員は公(おおやけ)=「国家」に尽くすものであり、それは、国民全体の意思とは異なることもある、とする金泰昌氏の主張――――
これは、彼が公(おおやけ)と呼ぶ官と、公共とを区分けする『公共哲学の三元論』(=「公」と「公共」と「私」の三区分)から出てくる帰結ですが、
においては、国民全体への奉仕者という規定を導くことができません。

国民への奉仕ではなく、公=国家への奉仕が国家公務員だと規定する金氏の公共哲学=三元論と、わたしの主張した「国民サービスマン」という規定とは真正面からぶつかり、激しい論戦となったのですが、日本社会が、主権在民の民主主義原理を貫くためには、官を公(おおやけ)という特別な領域においてはならず、あくまでも官は「公共世界」を支え・開き・つくるためにのみ存在するとしなければならないはずです。「国民の利益と国家の利益が違うこともある」(金泰昌氏)という主張は、民主主義原理とは背反するものでしょう。

この金泰昌氏の三元論に全面的に同調する学者のひとりである稲垣久和氏は、国家公務員の「全体への奉仕」という意味はよく分からない、全体とは何なのか?と言い(「公共的良識人」紙)、また、金氏自身も、「全体というのは、全体主義に通じ、危険である」という主張を繰り返していますが、このような意味不明の言説が出てくる背景には、「官」を公(おおやけ)という特別な領域におき、これと公共世界を異なるものとする公共哲学=三元論があるのです。

人事院のアンケート結果は、多くの人が、民主主義社会の常識に沿った正当な感覚・思想を持っていることを示している、わたしは、そう思い、心強く感じました。
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以下は、コメント覧です。

本当にいい加減にしてほしい (荒井達夫)
2009-09-06 14:08:41

国家公務員法第96条は、「すべて職員は、国民全体の奉仕者として、公共の利益のために勤務し、且つ、職務の遂行に当つては、全力を挙げてこれに専念しなければならない。」と規定しています。これは、国家公務員の「在るべき姿」を定めている「理念規定」ですが、今回の人事院のアンケート結果は、国民の多くがこの規定の遵守を求めていることを示しています。

ここで、「国民全体の奉仕者」の「国民全体」とは、1947年文部省発行の『新しい憲法のはなし』の中に、
「・・・そうすると、国民ぜんたいがいちばんえらいといわなければなりません。国を治めてゆく力のことを『主権』といいますが、この力が国民ぜんたいにあれば、これを『主権は国民にある』といいます。」
とありましたが、その「国民ぜんたい」と意味はまったく同じです。

つまり、主権在民の憲法の下、「国民ぜんたいがいちばんえらい」、その「国民ぜんたい」に奉仕するのが、国家公務員である、常にそうあるように全力を尽くせ、と国家公務員法は「国家公務員の理念」を定めているわけです。

あまりにも当たり前の話ですが、「公・私・公共三元論」では、「全体とは何なのか? 全体というのは、全体主義に通じ、危険である」という、非常識極まりない主張がされています。三元論者は、「理念と現実の区別」さえできていないことになります。国家公務員法の理念規定を全体主義につなげるとは、呆れるばかりです。本当にいい加減にしてほしい、と私は強く願っています。
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Einwand (山脇直司)
2009-09-06 19:33:33

何度も言いますが、三元論といっても色々あることを踏まえて、批判してください。お二人(だけ?)の異様なまでの(サディスティックな)三元論攻撃には、「民主主義的・非ルソー的・共和主義的」三元論者の私としては、大変迷惑しています!私は、当時その表現は用いていませんでしたが、2004年刊行の拙著ちくま新書の176ー177ページで、政府が実施する公共政策は、責任ある「民の公共」によって、究極的に正当化され、補完されるべきことを、公共哲学は常に喚起することを、強調しています。
いずれにせよ、この一連の問題に関しては、論争の「フェアネス(公正さ)」という観点を重視しつつ、論文かエッセーとしてまとめ、公刊したいと思っています。
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内容についての批判をお願いします。 (タケセン=武田康弘)
2009-09-06 22:36:26

山脇さん

わたしは、≪金泰昌さんの三元論≫
=官を「公」(おおやけ)と呼んで、市民の「公共」とは区別しなければならないという主張について批判しているのですから、
そのわたしの主張への反論(もしあるならば)をして下さい。

本文を再度貼り付けますが、

「国民への奉仕ではなく、公=国家への奉仕が国家公務員だと規定する金氏の公共哲学=三元論と、わたしの主張した「国民サービスマン」という規定とは真正面からぶつかり、激しい論戦となったのですが、日本社会が、主権在民の民主主義原理を貫くためには、官を公(おおやけ)という特別な領域においてはならず、あくまでも官は「公共世界」を支え・開き・つくるためにのみ存在するとしなければならないはずです。」

という内容に対しての批判をお願いしたいのです。
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事柄の再確認 (山脇直司)
2009-09-06 22:54:34

タケセンさん

少なくとも私が部分的に関与した公共哲学シリーズ20巻の中で、金さんがそのような発言をしている箇所を私は知りません。あったら指摘してください。ですから、私としては金さんが国家公務員研修会(なぜ韓国籍の彼がそのような会に呼ばれたのか不可解ですが)でそのような発言をしたのなら、シリーズ公共哲学とは全く関係のない彼の放言として、私は強く批判したいと思います。なお繰り返しますが、金さんはどこまでも仲介者としてシリーズの編者を務めたのであって、荒井さんたちが勘違いしているようなこのシリーズの権威であるとは、私を含めこのシリーズに登場する論者は、誰も思っていません。その点は根本的事項としてご理解ください。
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勘違いではありません (荒井達夫)
2009-09-07 00:19:07

山脇さん

山脇さんの言う「金さんのそのような発言」とは、山脇さんも参加した参議院調査室主催の「公共哲学と公務員倫理に関するパネルディスカッション」の中でなされたものです。そこで、シリーズ公共哲学の編集方針が問題になり、金泰昌さんの三元論の思想が厳しい批判にさらされたわけです。これは公知の事実ですから、否定しようがないのです。
http://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/20080220.html
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公=国家への奉仕 (タケセン=武田康弘)
2009-09-07 09:30:16

山脇さん

「国民への奉仕ではなく、公=国家への奉仕が国家公務員だと規定する金氏の公共哲学=三元論と、わたしの主張した「国民サービスマン」という規定とは真正面からぶつかり、激しい論戦となったのですが、・・・」

【公=国家への奉仕をするのが国家公務員】と規定した金泰昌さんの参議院調査室での発言(=繰り返し、強調)は、山脇さんも同席していたわけですからご存じの通りです。その考えがシリーズ『公共哲学』のどこに記載されているのか?というご質問ですが、それは知りません。このシリーズには「公務員を哲学する」という箇所がないために、金さんは上記の自説を述べる機会がなかったのだと思います。

なお、その主張(=国家公務員は国家のために働き、市民は市民的公共のために活動する)というのは、彼の三元論(官を公と呼び、公共とは区別する)から出てくるわけですが、その思想は、シリーズ『公共哲学』の表紙裏に書かれています(4つの編集方針の2として20巻すべてに)。


「権威」かどうかは、 (タケセン=武田康弘)
2009-09-07 09:58:36

「金さんはどこまでも仲介者としてシリーズの編者を務めたのであって、荒井さんたちが勘違いしているようなこのシリーズの権威であるとは、私を含めこのシリーズに登場する論者は、誰も思っていません。その点は根本的事項としてご理解ください。」(山脇)

とのことですが、 もし例え、この本で発言している各論者が金さんを権威とは認めていないのだとしても、社会的には「権威ではない」とは思われていません。権威だと見なされていなければ、人事院が最上級の講師として十数回も呼ぶわけがありませんし、中国や韓国の大学から最高の扱いを受けるわけがないと思います(それは「公共的良識人」紙を見れば一目で分かります)。

また、山脇さんも「公共哲学」の中心思想として自著の中で繰り返し強調されている「活私開公」(私を活かして公を開く)という言葉=概念も金泰昌氏のものではないのですか?

そもそも金泰昌さんがいなければ、このシリーズ(東大出版会による『公共哲学』)はなかったのだと思いますが、わたしの誤認でしょうか?
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お応え (山脇直司)
2009-09-07 12:26:52
活私開公という言葉は、金さんの造語であり、それを私が「一人ひとりの私を活かしながら、民の公共を開花させ、政府の公を開いていく」という独自の意味で使っていることは、私の著書で繰り返し述べているとおりです。私は金さんを一人の友人とは思っても、社会的権威とは全然思っておりませんし、そのことは、何度も繰り返しますが、このシリーズで金さんに論争を挑んでいる金さんよりはるかに影響力の大きい東大教授(井上さん、長谷部さん、西尾さんなど)の発言を読めば、明らかです。そういった論争を読みもせずに、彼に権威を付与するのは、明らかに間違っています。もし、責任を問われるとすれば、外国人である彼を、日本国籍保有者しかなれない「国家」公務員の研修会に呼んだ人でしょう。いったい誰が彼を研修会に呼んだのですか?
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お応え、ありがとうございます。 (タケセン=武田康弘)
2009-09-07 13:13:24

山脇さん

お応え、ありがとうございます。

「私は金さんを一人の友人とは思っても、社会的権威とは全然思っておりませんし、」
山脇さんのお気持ちはよく分かりますが、山脇さんの心・考えと、社会的な評価とはまた別であると思います。それが前記の事実=業績として表れているのでしょう。

大学・学会の中の評価や影響力については、わたしは全く知りませんので、井上さん、長谷部さん、西尾さんという名前をあげられてもお応えのしようがありません。山脇さんとわたしは生きている場が大きく異なるために、「影響」という言葉の意味内容もまた異なるようです。とにかく、わたしには関わりのない人のことを言われてもどうしようもありません。

「誰が彼を研修会に呼んだのですか?」というご質問ですが、もちろんわたしには分かりませんので、人事院に問い合わせてみて下さい。
ただ、金泰昌さんから彼が大きく載っている『行政ジャーナル』(人事院発行)を頂きましたが、それには佐々木毅さん(元東大法学部長・総長)も一緒に載っていましたので、推測ですが、佐々木さんの紹介だったのではないでしょうか?どうもそうとしか思えないのですが・・・・・。
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国家公務員という名の変更を提唱します (山脇直司)
2009-09-07 13:23:19

武田さん
これ以上、議論しても生産的ではないし、私もいろいろな活動や執筆に追われているので、この問題全般の顛末に関して詳細に論考し、公刊いたします。もちろん、その論考は公務員の方々にも配布します。なお私としては、この機会に、権威主義的な臭い漂う国家公務員という言葉を、中央公務員という名前に変えることを提案いたします。公務員改革には、権威主義的でない方々(地方公務員やNGO・NPO関係者)と共に実践していくつもりです。
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Unknown (青木里佳)
2009-09-07 21:09:11

第三者の私からこのやりとりを読むと、山脇さんのコメントは、タケセンや荒井さんの言っている「三元論」の話から脱線していますね。
金さんの三元論の批判で始まってるのに、三元論といっても色々あるという話になっているので、あれれれれっ、て思ってしまいました。
しかも「サディスティックな三元論攻撃・・・」ってすごい表現で、???ですねぇ(苦笑)。
うーむ。。、深く踏み込んだポイントを突いた討論、それについて考えるというのが山脇さんは苦手のようですね。哲学の討論とは違う分野の方が向いていると思いました。色々と知識はお持ちのようですので。
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ディベートの否定が哲学 (タケセン=武田康弘)
2009-09-08 01:22:50

哲学(=恋知)の討論的対話は、勝ち負けではなく、自我の拡張のためではなく、したがって戦略・戦術を弄するのものではなく、グループ別・党派別の闘いではない。
いわゆる「ディベート」(言語ゲーム)を否定し、なにがほんとうなのか?と考え、言葉を『善美のイデア』をめがけて紡ぐのがソクラテスの提唱したディアレクティケー(問答法)だったのです。
わたしは、このようなそれ自身がエロースの試み(ただし厳しさを内に持つ悦び)を実践したいと考えています。
これからも、内容豊かな建設的批判を相互に交わせるような自由対話ができるように努力したいと思います。まだまだ力不足ですが。


コメント (13)
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