以下のような投稿が公共哲学mlにありましたので、それに応えました。
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公共哲学は学問の全体性も追求します。
しかし、ともすると知識をヨコに繋げているだけで、薄っぺらなものになる危険があります。
また、深さも出難いです。該当するテーマの先行研究の水準を越えないで終わってしまう可能性もあります。
そういう意味では特定の専門を持たずに公共哲学をやるのはかなり無謀かも知れません。
学問的にも就職するという点でも。
多分一部の人が旗を振っていても、公共哲学はなかなか進展しないでしょう。
学部や大学院、学会などトータルに学問の再編をしないとなかなか難しい気がします。 (K)
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武田です。
このkさんの指摘は、とても本質的で、よいと思います。
公共(性)について哲学する、というのは、さまざまな分野(個別学問)の人に共通する課題であるわけすが、「公共哲学」という四字熟語でなにか新しい学問をつくる(=固有名詞としての公共哲学)というのは、わたしも間違っていると思います。
もし、「現実に価値のある公共哲学」というものがあるとすれば、〈公共(性)について哲学する場を設ける〉ー誰でもが入れる、しかも平等の資格(特定の人だけを「先生」と呼び、差別することのない=これは絶対の条件))で語り合う場を設け、そこでの意見によって公共(性)についての考えをつくり深めていく営みだといえます。
そうでないならば、哲学と言う言葉は、羊頭狗肉にしかなりません。これはわたしが金泰昌さん何度も「忠言」したことで、彼もそれを認めたのですが(皆の前で)、どうしても大学教授による大学教授のための公共哲学という狭い枠内に留まり、広く生活世界という無限の宇宙で哲学することにはなっていません。井戸の中が世界であり、そこが一番偉い場所とでも思っているなら、笑止でしかありませんよね。
わたしは、第二次言語の枠内に留まるようなら、まだまだ「哲学する」からはほど遠く、日常言語の次元に下ろしてその場で考えることをしなければ、哲学はその存在理由を失う(もうとっくに失っている)と考え、それを超えるための哲学実践を30年間以上にわたり続けてきました。
さまざまな個別学問(及び学際的学問)と、哲学するという営みは、本質的に異なるのですが、それについての説明はまたブログに書くことにします(近日中に)。
武田康弘
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以下は、コメント欄です。
同感です。 (荒井達夫)
2009-10-02 10:02:12
荒井です。
私も、金子さんの指摘は鋭いと思いました。
この問題に関して、
以前私が書いた論文を添付しますので、ご覧ください。
3年近く前に、「公共的良識人」で白樺特集をやり、それに掲載したいという金泰昌さんの依頼で執筆したものですが、結局、「これでは学者のメンツ丸つぶれになる」(金さん)とのことで、ボツにされてしまいました。金泰昌さんも、編集部でずいぶん苦労されたようでしたが、残念でした。
この論文に記した私の考えは、基本的に変わっておらず、現在の仕事に直結しています。