思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

公共哲学12巻ー「法律から考える公共性」

2009-09-13 | 社会思想

山脇さんが、わたしと荒井さんに推薦した『公共哲学』の12巻「法律から考える公共性」を読みましたが、
「総合討論Ⅱ(217ページ~253ぺージ)コーディネーター・山脇直司」の中で、金泰昌さんは以下の発言をしていますね。

228ぺージ~
「民主主義」という政治制度では、現在世代が将来世代のことを考えるということはかなり「困難」であるのです。・・・将来世代の声はもし存在しても、少数者なので汲み取られにくく、結局多数の横暴になる。このような現在世代の専制に対して実際どのような歯止めをかけ、現在を、過去と未来に繋げるのか。
アメリカの場合い、それは「民主主義」ではなく」「憲法」だというわけです。・・アメリカの憲法は2世紀あまり前に建国の志士たちが〘将来のアメリカ〙を想定して、合意して書き残した過去の文献です。・・今ではなく過去の「建国の精神」「憲法制定の基本精神」を踏まえ、その決定が未来に与える影響を十分に考えて行われるわけです。・・民主主義という政治制度が持っている限界を、憲法がある程度補足するという見方なのです。・・
日本はアメリカと違って「憲法」というよりは「天皇」にそれが担保されているのではないかということです。・・日本の場合は一応「成文法としての憲法」があるにも拘わらず、過去と現在と未来が繋がるという意味での公共性が、「憲法」に対する信頼よりはむしろ実在する人格としての「天皇」に対する信頼に担保されているのではありませんか。

それに対して、長谷部恭男さん(東京大学法学部教授・憲法学)は、以下の発言をしています。

天皇制がその役割をはたしているというのは、答えは明らかに「ノー」です。・・
将来世代の問題ですが、・・人間というものはいつも刹那的にものを考えて生きているわけではない。公共的な問題についてこういう長期的な視点があるんだという情報を十分に与えれば、多数決でもそれなりに真っ当な結論が出てくる可能性があると思います。

その後で、金泰昌さんは以下のように発言し(245ページ)、それに対して山脇さんは批判的に応答していますね(246ページ)。

憲法には過去との繋がりという面があるのということです。改正しても過去とのつながりはなくならないと思うのです。だって、もし過去との繋がりがなくなったら、国家を改めて創設するしかないのですから。・・
ポツダム宣言を受けて日本のリーダーが、第二次世界大戦の終末に際して最後の最後までこれだけはと守ったのは、結局、「国体」だったわけです。・・要は国家としての連続性だけはどうしても認めてほしい、それ以外のことは無条件降伏するという意思があったのではないでしょうか。

山脇直司  今の金先生の議論は自民党の中曽根さんたちが喜ぶような話にも聞こえてしまいます。・・戦後の憲法は大日本帝国憲法と縁を切ったというラジカリズムの方が、リベラルな金先生のお立場に近いと思っていたのですが・・・・、少なくともこの問題に関しては、私はむしろ過去と断絶すべきだという考えをもっています。

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そもそも日本の明治維新は、過去との断絶でした。それまでの神道の教義内容を大きく変えた新宗教(=後に「国家神道」と呼ばれた「靖国思想」)までをも明治政府がつくり、それによる天皇崇拝の洗脳教育を第二次大戦の敗戦まで続けたのですから。
しかし、
「自由民権運動」を担った民や民の側についた人々は、民権思想を掲げて明治政府と闘い、「大日本帝国憲法」の発布される以前にすでに現在の「日本国憲法」に近い憲法草案をつくっていました。それは各地の民権家の蔵から多数みつかっています。500年以上前の自由都市や惣村や一向宗による「自治政治」と共に、我が国には為政者ではなく「民」による優れた統治の歴史があるのです。その歴史との連続性こそ「真に継承する価値ある歴史」である、そうわたしは確信しています。

また、言うまでもなく「民主主義」というのは≪思想≫であり、主権在民をその本質とするわけですが、その思想を理念法の形にしたのが憲法です。したがって「民主主義のもつ限界を憲法が補足する」という金泰昌さんの発言はまったく意味不明であるとしか言えません。(武田康弘)

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以下は、コメント欄です。

本当に、真面目に議論してほしい (荒井達夫)
2009-09-13 17:36:30

「日本の場合は一応、成文法としての憲法があるにも拘わらず、過去と現在と未来が繋がるという意味での公共性が、憲法に対する信頼よりはむしろ実在する人格としての天皇に対する信頼に担保されている。」、「憲法には過去との繋がりという面がある。改正しても過去とのつながりはなくならない。もし過去との繋がりがなくなったら、国家を改めて創設するしかない。」、「ポツダム宣言を受けて日本のリーダーが、第二次世界大戦の終末に際して最後の最後までこれだけはと守ったのは、結局、国体だった。」(金泰昌さん)

要するに、金泰昌さんの「公(=「国家の利益)」とは「国体」であり、天皇が「公共性」を担保しており、これが憲法を改正しても変わらない、ということでしょう。明らかな「主権在民」の否定です。

金泰昌さんの「公・私・公共三元論」は、今日の我が国の国家運営には有用性を持ちません。『公共哲学』全20巻も、再検討されなければなりません。公共哲学関係者は、本当に、真面目に議論してほしいと思います。

なお、日本国憲法の制定に深く関わり、さらに第3代の人事院総裁を務めた故佐藤達夫氏は、次のように述べています。
 「昭和22年新憲法の実施とともに、公務員は〝天皇の官吏″から〝全体の奉仕者″となり、その結果、公務員制度についても根本的改革が行なわれました。」(「人事院創立15周年にあたって」『人事院月報』昭和38年12月号)
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シリーズがなぜ金哲学に染め上げられたのか? (タケセン=武田康弘)
2009-09-14 00:24:21

荒井さん

「公共哲学」シリーズにおける議論は、有益なものも多いのですが、シリーズの全体が金泰昌氏の三元論的見方(官を公と呼び、これと市民的公共を分ける)を宣伝するような体裁になっているために、大きな誤解が生じています。

11巻=「自治から考える公共性」では、西尾勝氏が公と官の違いを明晰にし(90ページ)、その前後で松下圭一氏がよい説明をし、結語として松下氏は、近代以降の「公」は、「個人の相互性」に変わり、官(国)や公は市民の道具となってしまう、つまり、市民型ないし自治型の公共を、国家型ないし官治型の公共に対立させて位置づけたい」と述べています。
また、日本の現実は、戦後の最初から憲法違反の「官僚内閣制」だ、と正鵠を射る指摘をしてもいます(89ページ)。

ここには、金氏のような混沌=次元の相違を弁えずゴッチャにする思考はなく、論は明晰です。それなのになぜ、金氏の三元論的な見方に代表されるなんでも3つに分ける形而上学が「公共哲学」の主流になってしまったのか?そこを明白にすることが必要だと思います。
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「公共哲学」を一度廃棄処分にするぐらいの覚悟が必要 (荒井達夫)
2009-09-14 22:02:41

「公」は官の論理、「公共」は民の論理、というのが、金泰昌さんの発想です(公共的良識人200.5.1号5頁)が、これに疑問を感じなかったところが、そもそもの問題の始まりだと思います。また、少しでも疑問が出たところで、きちんと議論していれば、主権在民に明確に反する思想が公共哲学シリーズの編集方針になるというような、馬鹿げた事態にはならなかったのではないでしょうか。

「公共哲学」という学問の根本的見直しが必須であり、特にシリーズの編集に関わった学者の一人一人が見解を明らかにすべきと思います。「公共哲学」を一度廃棄処分にするぐらいの覚悟が必要でしょう。

そして、速やかに「主権在民」の原理に立脚した「本物の公共哲学」の構築に向けて努力すべきと思います。
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思想のもつ社会的身体性 (タケセン=武田康弘)
2009-09-15 12:57:33

山脇さん、荒井さん

わたしは、さまざまな公共のありようについて研究することは大切なことだと思っています。楽市楽座の室町時代の公共性、江戸時代の庶民文化の公共性、明治時代の天皇主義・国体思想の公共性、・・・

しかし、現代の政治思想・教育・文化としての公共性のありようとあるべき姿、また未来の公共性を構想するというレベルにおける思考=哲学は、主権在民を徹底させる方向=民主主義を深化・発展させる方向で考える他はないと考えています。どうすれば、どのような条件を整えればそれが可能になるのか?を探るのが、≪公共哲学≫が果たすべき役割であるはずです。

ところが、このシリーズ全体のまとめ役(本を手にとれば、誰が見てもそう思える)の金泰昌氏は、公共哲学とは「公共性について哲学する」のではなく「公共哲学する」なのだ、と主張します。ここには明らかに、公共哲学を一般名詞にはせず、固有名詞にしたいという強い願望が表れていますし、現に、その思想の下で「公共哲学」という講義が大学で行われています(私の教え子が法政大学で受けた公共哲学と言う名の形而上学!)。

たとえ、シリーズ「公共哲学」に関わった人の意思ではなくとも、現実の大学や社会の中で金氏の思想を反映した固有名詞としての「公共哲学」が広がれば、それは困ったことでしょう。わたしの師であった竹内芳郎氏は、ある思想が、実際にどのような現実への作用をするのか・しているのかをよく知り、それに対して責任を取るのが思想を語る者の倫理であると言いました(思想の持つ「社会的身体性」を考慮すること)。思想を語る者への厳しい戒めですが、その緊張感を失えば、どのような思想も有害なものに転じてしまうと思います。わたしは、そのことをいつも肝に銘じていますが、幾つもの失敗もありました。
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暫定的なお応え (山脇直司)
2009-09-16 11:32:43

当方、ドイツで行われる「日本における市民と国家」のシンポジウムに出るための準備に追われており、時間がいま取れません。しかし、荒井さんに対するお応えだけははっきりしています。私が荒井さんに差し上げた『グローカル公共哲学』をお読みください。また、そもそも武田さんが好意的にこのブログで取り上げてくれたおかげで、知り合うきっかけになった『公共哲学とは何か』をお読みください。そこには私の公共思想が定式化されています。
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肝心の点について明解にお願いします (荒井達夫)
2009-09-16 23:55:19

山脇さん

お答えいただきありがとうございます。ただし、また、論点を外していますね。

ここでは、シリーズ公共哲学の12巻「法律から考える公共性」(特に長谷部・金対談)が、議論の対象になっているはずです。山脇さん自ら、武田さんと私に「読むべき」と推薦したものです。

「グローカル公共哲学」や「公共哲学とは何か」を読め、というご返事は、その答えに全然なっていないと思いますが、いかがですか。

お答えいだだけるなら、ご自身の近況報告は不要ですので、肝心の点について明解にお願いします。
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ご同朋ご同行 (タケセン=武田康弘)
2009-09-17 15:27:02

山脇さん

わたしは、山脇さんは、人間としては優しく親切で、よい人だと思っていますが、こと議論となると、本の名前と作者の名前、思想の形式名を羅列され、内容・中身として考え・話をすることが少ないですね。

いつも何か(情報?)に脅迫されているかのようで、ひとつひとつの中身を前進させる=深い納得を生む言説に鍛えていく、という落ち着いた展開になりません。しっかり掘り進める、というのではなく、アチコチに飛んでしまい、有用な知を生みだす作業に入れないのです。

せっかく知識や経験を多くお持ちなのですから、足を地につけて、共に大道を歩みましょうよ。書物の哲学や、著名な哲学専門家の哲学について語るのではなく、いまの現実と日々の具体的経験を踏まえ、自分の頭で考えた内容を交換することには、何よりも大きな価値があると思います。

他者への気配りや、また他者への攻撃ではなく、愚直に何がほんとうなのか?を目がけての哲学対話(ディベートではなく)には何よりも大きなエロースがあることを山脇さんも十分にご存知のはずですから。ご同朋ご同行。
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同感・感謝です (荒井達夫)
2009-09-17 22:36:48

私も、武田さんのご意見に同感です。
なお、山脇さんが、私の公共哲学MLへの加入をすすめてくれたとのこと、感謝いたします。
「主権在民の公共哲学」の構築に向けて、一緒に頑張りましょう。


コメント (8)
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