思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

他者の自由を認めない思想の自由はないー「靖国問題」での問答

2010-08-18 | 社会思想

以下は、下のブログに対してのmixiでのやりとりですが、【思想の自由】について踏み込んだコメントの往復となりましたので、記事にします。


よしくんぱっと 2010年08月15日 21:31

靖国神社側の皆さんにも思想の自由を認めてあげた方が、主権在民・自由と平等の理念により沿っているのでは?

「国立の墓苑」という考え方もなかなか無理のあるところと思います。墓には宗教が伴っているから。国民のマジョリティがそれを支持するのであれば、民主主義に沿っていますが。

戦没者を勝手に祀る靖国神社側の自由と、戦没者側の祀られない自由とがぶつかります。
私は祀られない自由の方に勝たせるべきだと思っております。祀られない権利を行使できる法制度が必要と思います。
これは、「国立の墓苑」ができたときも同じですね。

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タケセン 2010年08月16日 11:56

民主主義には無制限の思想の自由があるのではなく、samさんも書かれているように、他者の自由を否定する思想の自由はなく、また寛容性のない抑圧的な宗教の自由もない、とわたしは思っています。そうした「根源ルール」の上に立たないと、個人の自由や基本的人権が保障されないからです。

よろしければ、以前に書いたブログを見てください。
http://blog.goo.ne.jp/shirakabatakesen/e/998028bec1b80d1961171d91014f0ce9

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よしくんぱっと 2010年08月16日 20:37

>民主主義には無制限の思想の自由があるのではなく、samさんも書かれているように、他者の自由を否定する思想の自由はなく、また寛容性のない抑圧的な宗教の自由もない、とわたしは思っています。そうした「根源ルール」の上に立たないと、個人の自由や基本的人権が保障されないからです。


民主主義と思想の自由とは十分に切り分けて考えた方が良いと思います。

民主主義の下において、他者の自由を否定する思想の自由はありますし、また寛容性のない抑圧的な宗教の自由もあります。タケセンさんに思想の自由があるのと同様に、靖国神社側の皆さんにも思想の自由はあります。国立の墓苑をつくらなければならないと考える自由も、靖国神社が良いのだと考える自由もあります。

思想の自由とは無関係に、他者の自由を否定する思想や寛容性のない抑圧的な宗教を国民のマジョリティが賛成するなら、国は、それらを国家運営の基礎にする必要があります。これが民主主義です。天皇主権を国民のマジョリティが賛成するなら再び採用する必要がある。これが民主主義です。国立の墓苑を国民のマジョリティが賛成するなら作る必要がある。これが民主主義です。

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タケセン 2010年08月16日 22:03

「思想の自由とは無関係に、他者の自由を否定する思想や寛容性のない抑圧的な宗教を国民のマジョリティが賛成するなら、国は、それらを国家運営の基礎にする必要があります。これが民主主義です。天皇主権を国民のマジョリティが賛成するなら再び採用する必要がある。これが民主主義です。国立の墓苑を国民のマジョリティが賛成するなら作る必要がある。これが民主主義です。」

純粋に「論理的」(形式論理)にはその通りですが、近代市民社会が成立して個々人の自由が解放された後では、自由を禁止するという思想を人々が支持することはありえないでしょう。というわけで、ふつうには「逆転」は無理なのですが、それを利害やある種の感情を持つ人が強行しようとすれば、おぞましい結果をもたらすでしょう。

わたしたちが取り組むべきは、そうなってしまう可能性を極力減らすための思想的努力だと思います。「この社会はわたしが作っているのだ」という自覚をつよめ、自治能力を鍛える営みをだんだんと広げていくためにはどのように考え・どのように行為したらよいかーそれを現実化するための【思想の原理】を明晰に意識しようではないか!それがわたしの根源的主張です。

もちろん『靖国神社』が一宗教法人としての活動をすることは許されますが、彼らの主張が近代民主主義社会の原理と背反することを明らかにすることは、とても大切な営みのはずです。それを具現化したのが今回のブログなのです。近代の市民社会を支える民主主義とは、「意識的に互いの自由を承認し合う事でつくられるルール社会であり、予めの特定思想の強要は原理に反する」――それを明晰化する努力が今とても求められるのではないか、わたしはそう判断するのですが、如何ですか。

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よしくんぱっと 2010年08月17日 08:45

>近代の市民社会を支える民主主義とは、「意識的に互いの自由を承認し合う事でつくられるルール社会であり、予めの特定思想の強要は原理に反する」――それを明晰化する努力が今とても求められるのではないか、わたしはそう判断するのですが、如何ですか。

おっしゃるとおりです。

で、靖国神社側の皆さんの思想の自由をも承認するべきで、予めの特定思想の彼らへの強要は原理に反する、と思うのです。それを明晰に押さえていないとおかしな方向に行くと思います。

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タケセン 2010年08月17日 09:48

「靖国神社側の皆さんの思想の自由をも承認するべき」は、その通りで、
わたしは、以下のように言いましょう。

わたしはあなた方の言うことにひとことも賛成できないが、あなた方には思想の自由がある。その自由を守るためにわたしは命をかけるつもりだ。翻って言おう、あなた方はあなた方に反対する人々の自由をも認めなければならない。それがこの社会の原理である、と。

クリスチャンや真宗の遺族の申し出を拒否し、故人の遺志に反しても自説を強行する!それは許されないのです。根源ルールに反するからです。自分の自由は主張するが他者の自由は認めない、という者はこの社会には住めません。それが民主主義の根源ルール(=思想の自由を成立させるためのメタルール)なのです。

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よしくんぱっと 2010年08月18日 00:36

>それがこの社会の原理である、と。

そのとおりです。
よくわかりました。


しかし、それは「思想の自由を成立させるためのメタルール」であって、民主主義の根源ルールではないのでは?
国民のマジョリティーが「民主主義はやめて、君主主義に戻りたい」と望めば、民主主義は自己放棄をして君主主義に席を譲らなければなりません。
国民のマジョリティーが「靖国神社は個人の信教の自由を否定して、戦死者全員を祀らなければいけない」と考えるのであれば、たとえ天皇が嫌だといっても、靖国神社は民意に従わなければならない。
これが民主主義の根源ルールと思います。

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タケセン 2010年08月18日 01:37

「国民のマジョリティーが「民主主義はやめて、君主主義に戻りたい」と望めば、民主主義は自己放棄をして君主主義に席を譲らなければなりません。」(よしくんばっと)

論理的にはその通りです。
しかし、いくらなんでもそれが現実にはなりませんよね。


「それは『思想の自由を成立させるためのメタルール』であって、民主主義の根源ルールではないのでは? 」(よしくんばっと)

社会思想では、「思想の自由」を保障する社会システムを「近代民主主義」と呼んでいます。日本国憲法の第19条は「思想及び良心の自由」ですが、それが出てくる根拠は、近代民主主義の哲学思想です。

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よしくんぱっと 2010年08月18日 03:32

>しかし、いくらなんでもそれが現実にはなりませんよね。

民主主義の根源ルールに従えばそうなるのでは?

靖国神社が好きな人たちは、それを現実にならせるべくがんばっておられるのでは?


>社会思想では、「思想の自由」を保障する社会システムを「近代民主主義」と呼んでいます。

なるほど。理解しました。本来の文字の意味とは異なるので、無知な私にはわかっていませんでした。民主という言葉を使わず“近代思想の自由主義”とでもよんで欲しいです(笑)。君主の下でも民主の下でも「思想の自由」を保障することはできますしね。

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タケセン 2010年08月18日 08:25

「靖国神社が好きな人たちは、それを現実にならせるべくがんばっておられるのでは? 」

は、その通りだと思います。

ただ、歴史は巨視的に見れば、いったん「個人の自由」が解放された後で、それを逆転させることはまず不可能で、それをするには、無理な力(洗脳=占脳のような教育・強引な権力による政治)が必要になります。この問題では、わたしの友人の竹田青嗣さんが最近出した『人間の未来』(ちくま新書)はとても好評です。「いまさら」とも思いますが(笑)。

また「靖国」の問題で言えば、単に、「全軍人を祀る」とか「軍人の戦死者を集合神とする」という教義を述べるだけならば、近代民主主義の原理に反しません。それは、「全世界の平和を願う」とか「全人類の幸福を実現する」という言説が可能なのと同じです。

しかし、『靖国神社』では、一人ひとりの個人名を書き込み、その全員を集合神としています。「生前の本人の意思も遺族の意思も認めない」という主張をしていますので、個人の自由の侵害・信教の自由の侵害・基本的人権の侵害にあたります。韓国、北朝鮮、旧満州国、台湾(戦前は日本領)の兵士も、個人名を書き日本国の「軍神」として祀っていて、遺族のやめてほしいという訴えを拒否していますし、仏教の僧侶やキリスト教徒の「合祀から外してほしい」という訴えも拒否しています。

これは、近代市民社会の民主主義の原理(「日本国憲法」の基本理念)を認めない思想であり、到底容認できるものではないのです。そのことを皆さんにぜひ知ってもらいたいと思います。まさに、「靖国神社の思想と思想の自由を保障する近代民主主義の思想とは二律背反」なのです。


よしくんばっとさんのご意見・ご質問で、この問題を深く明晰にでき、とてもよかったと思います。感謝です。

コメント
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