思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

ほんとうの知と教育を生むには、「東大病」からの快癒が不可欠です。

2010-08-28 | 教育

受験知(=紙に書いてある問題・正解が決まっている問題の答えを書く知)の所持者は頭がよいので、総合的判断力がある、というほとんど妄想としか言えない信仰を持つ者によってわが国は運営されている(国家公務員のキャリアシステムはその象徴)わけですが、人間の能力に対するこの全く間違った観念は、個人を幸福にせず、国の行く末を暗いものにしています。未来がない!

イマジネーションに乏しい固く硬直した観念の持ち主や、過去の歴史に拘泥し未来への構想を持てない紋切頭の持ち主が優秀者と見なされるのでは、現在のはつらつとした生は消え、生きた頭脳は育ちません。受験知の支配=権威者(象徴的には東大)に頼る愚かな文化をもつ社会では、優秀者ほど頭が悪いのです。

総合的な判断能力は、現実との格闘の中でしか生まれません。それはペーパーテストでは全く計ることのできない能力であり、その育成は、従来の教育の発想を根本的に変えない限り不可能です。わたしが白樺教育館で行っている『ソクラテス教室』の高校・大学クラスでは、そこに主眼を置いた新しい授業(ソクラテスの問答法をヒントにした対話型授業)を長年続けてきましたが、従来の型に囚われず、真に生徒が主体者の授業をつくると、自分の頭が内側から働きだすのです。学校のありようの問題や社会問題や家庭での問題、自分にとっての切実な現実問題と抽象的な思想とを絡めて、主体的に格闘しなければ、知は有用なものにはなりません。

「ハーバード大学のサンデル授業」のような討論ショーではなく、もっとはるかに深い納得が生みだされるのが、最大限の自由をもつ親密な対話による「有用に考える授業」なのです。「教えないで共に考える授業」をしなければ、生徒が真の主体者になることは不可能です。それは、従来の学校教育(小学校~大学院)とは異なる「主観性の知」(ほんらいの哲学)の鍛錬であり、その方法・内実は、【最良の家庭教育】と似ています。

わたしが幼いころ、寝る前に父は毎日お話を聞かせてくれました。それは空想とは異なる想像する力を伸ばし、考える力の元となったようです。小学生に入ったころからは、なんでも質問攻めにし、毎日のように父と問答をしていましたし、中学生になってからは対話する親友をつくりましたが、学校の休み時間と帰り道での毎日の対話(政治・社会問題、どう生きるかという哲学問題、趣味の話題)と、日曜日に互いの家を行き来しての対話と遊び、それが有用な思考力を育ててくれました。受験勉強づけの生活では思考力などつくはずがないのです。

覚えるだけではダメであり、よく考えることながないと見かけ倒しの形だけの頭脳しかつくられないのですが、受験知の勝者でしかない現在の知者と言われる人のほとんどは、覚えること(知識)で考えることの代用をしているに過ぎないようです。哲学までも思想的知識の暗記でしかないのですから、自分の頭で考えるのではなく、哲学史の理解と暗記がイコール哲学することにまで堕落するのです。根本的に考えるとはどういうことか、それが分かっている人はごく少数ではないでしょうか。

【話を聴き、話をする】という一番大切な、一番頭を使う(有用に使う)営みが少ないと、死んだ知しか得られないという知の原理を深く自覚することが必要です。最良の教育は、教えるのではなく、楽しく対話することなのです。繰り返しますが、「教える」という構えでは、ほんとうの知はけっして育ちません。

「受験知」による愚かな国家運営と不幸な個人生活をチェンジするには、「東大病」からの快癒が不可欠です。これは原理です。


武田康弘


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする