思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

『公共』の本質とは、「互いの自由を承認し合う」こと。

2010-11-13 | 恋知(哲学)

「公共」の本質とは、「互いの自由を承認し合う」ことです。

わたしは、あなた、あなた方の自由を認める、
あなた、あなた方は、わたしの自由を認める。
この二つが同時に満たされるとき、人間は現実において自由であり、公共性が得られます。
核心は、片方ではダメだということです。

したがって、他者が、いやだ・困るということを「強要」したり、「誘導」したりする自由はありません。「わたしの名前を書いてもらっては困る」という意思を無視して、「あなたを国の軍神として祀る」(靖国神社)という自由はないのです。上記の両方を満たさなければ、自由と公共は現実化しません。

以上の考察で明白ですが、「公共」という思想は、民主制社会において、最もそのほんらいの姿を示します。

「互いの自由を承認し合う」、というのは他のさまざまなルールが成り立つために必要な根源ルールです。民主制社会の中で生活するためには、この根源ルールを守ることが絶対条件なのです。独裁政治を行う自由・人を殺すことを是とする宗教の自由、他者をいたぶる自由は、原理上許されません。そのような自由はない、それが民主制社会の根源ルールです。

互いが自由に自らの人生を生きる、それを支え合う思想と仕組みを、公共と呼びます。現実に生きる社会人としての「私」には、公共性を広げる考え方・生き方が求められますし、逆に、公共性に反する考え方・生き方は批判されるべきです。自分だけの自由(=勝手)ではなく、自他の自由の相互承認は、民主制社会の原理です。特権者がいないからこそ公共は成り立つのです。


武田康弘
コメント (1)
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