思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

階級支配のシステムが「国家」―常備軍はその「暴力装置」というマルクス主義思想。

2010-11-22 | 社会思想

「自衛隊は暴力装置」という仙石官房長官の発言は、マルクス主義の国家理論で言われてきたことですが、近代国家を「悪」とし、国家の廃絶ないし死滅を目がける思想です。国家とは資本家階級が労働者階級を支配するための道具であり、階級支配を正当化するためにつくられた共同幻想だとし、その国家を支える暴力装置が常備軍だと言うのです。

このような非現実的な「国家否定のイデオロギー」を深層に持つ人が政府の中枢にいるとはいかにも奇妙な話ですが、この階級国家観の左翼思想で現実国家を運営するのは極めて危険です。国家の主人=主権者である市民(国民)の安全と利益を損なうおそれがあります。また、千葉大学の小林正弥さんグループによる「スピリチュアルな友愛哲学」に基づく政治という思想なども全く非現実的ですが、彼もまたマルクス主義をきちんと清算せずに横滑りで「公共哲学」(公と公共を分ける三元論)という潮流に乗りましたので、民主主義の原理につくことが出来ないのです。

わが国の不幸は、明治政府がつくった「国体思想」というイデオロギー(天皇神格化の国家宗教をつくり、その現人神としての天皇を国家の主権者として現実政治の頂点に置く思想=近代天皇制)に対抗する思想が、マルクス主義という社会・共産主義のイデオロギーであったことです。近代民主主義の原理を鮮明にし、それに依拠する潮流が弱かったことは、政治問題を酷く歪めてしまい、「わたしとあなたが国家をつくっているのだ」という自覚=自由と責任意識を育てなかったのです。

気骨ある真の民主主義者であった石橋湛山(第55代総理大臣)がいう「人権思想に基づき主権在民を原理とする民主主義思想」が継承されず、政治問題や教育問題が、いかに民主制を深めるかという視点から考えられ・語られるのではなく、左右の不毛な「主義」の争い(イデオロギー論争)になりました。一人ひとりの市民・国民を主体者にしていくという民主制を進める核心点については、ほとんど誰も語ることがありませんでした。

民主党、自民党、公明党、・・・・という枠組みを超えて、石橋湛山に代表される対等・自由の民主主義による大改革を進めなければ、わが国が強い輝きを持つことはないでしょう。官とは、市民的公共をつくるための機関→道具であるという視点を明確にし、市民・国民主権の国家をみなで建設したいものです。国家は悪だという思想は、民主主義とは相容れません。

武田康弘

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理論信仰=民主制を知らず (Sam)


 国体思想に感化された人たちは、自分たちのことを選ばれた臣民(エリート)としてとらえます。旧内務省系の官僚たちには特に多いと聞きます。この想念が自民党政権時代にあった大きな流れ(官僚支配)でした。
 一方で、思想を極めた人々が人民を教え導くというイデオロギーが存在します。現政権の中枢にいる一部の人々や小林正弥さんら学者グループもその流れ(旧左翼的志向)にいるのは間違いありません。現政権主流派と小林さんらが癒着するのが良くわかる気がします。対話ができないのに、人々に『熟議』を講釈する上から目線。情報公開を言っておきながら民に対して隠し事をする姿勢。いずれも民を信じず、人々を見下ろすエリート主義の現れであり、民主主義の思想とは真逆に思えます。こちらも新たな理論信仰による官僚支配を導くことでしょう。
 国体思想もサヨク思想も、あるイデオロギーの元にエリートを結集して民を導くという思想である点では一緒ですね。
両者がくっついたらどうなってしまうのか、ちょっと想像するだけで気持ちが悪くなります。戦前、戦中と岸信介らを中心とする進歩的官僚たちによって推進された国家社会主義がその末路に違いありません。
 これが冗談で済めばよいのですが、困ったことに、受験競争の激化が歪んだ受験知エリートを再生産しています。受験信仰は格差社会と理論信仰のエリート支配の社会を後押しするだけ。一人ひとりの市民が主体的に生きていける社会をめがけていたはずが、その根元から崩れつつあるのです。
 ここは腹をくくって、本来の民主制=私たち一人ひとりが主権者である社会を徹底して追及しなくちゃいけません。

コメント (1)
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