思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「喜怒哀楽」が人の生きる意味です。「論理」それ自体に価値はありません。

2010-12-22 | 恋知(哲学)

わたしたち人間は、何かを成し、何かになるために生きるのではありません。
生きることそれ自体が価値です。

このあまりにも簡明な原理を知らない人が多いのは、大変に困ったことです。
とりわけ、子育てや教育においては、この生の原理を鮮明に意識しておかないと、外的人間=情報ロボットをつくるために努力するという悲喜劇に陥ります。

生きることを【心の底から楽しめる】ようにするには、どう考え、どう行為したらよいのだろうか?心身の健康・健全で豊かな頭を育てるにはどうすればよいのだろうか?そのように発想しなければ、何をしようと、すべては砂上の楼閣です。生きる意味が希薄な人間は、根源的不幸の中に沈むしかないのですから。

このことの明晰な自覚を持てない大人は、子どもから「知的好奇心」を取り上げ、「受験勉強」を強い、企業戦士に育てるために努力しますが、その結果、子どもを人間(=喜怒哀楽の豊かな存在)にすることに失敗するのです。必然的に鬱病者ばかりの社会になります。この悪弊は「エリート」サラリーマンの家庭ほど強いようです。

人間の生きる意味と価値について知らないとは、本質的に「愚か者」でしかありませんが、成績優秀者(パターン知の持ち主)ほど、自らの愚かさを自覚できず、表層的な理論・理窟で本質的な問題から逃げ回る人生に終わります。

自らテストしてみてください。
あなたは、「情報・知識」を基に「考える」ことをしていませんか?
自らの五感で捉え・心で想う世界を鋭敏に豊かにする→「感じ知り想う」を基にして、そこから「考える」ことをしていますか。

前者のように知識や理窟が先行しているのでは、健全な悦びとは無縁の人生にしかなりませんね。でも、現代人は、後者のような健全性をもつ人は少ないのです。知識で誤魔化す・知識に逃げるのでは、【心の底から楽しめる】人生は永遠にやってきません。これは生の原理です。


武田康弘

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C-moon2010年12月23日 00:18

これまでの自分自身ではなく、今の自分を深く見つめても”情報”や貧困な”知識”を基に考え、”知識や理窟”を前面に出して語っていることが多々あります。実際のところ、mixi日記でもこうした傾向にあることを自覚しています。
なかなか脱しきれないのが現実です。
特に政治問題を語る時は、自分ではこれまでの集積を基に、自分の意見を書いているつもりなんですけど、後で読み直して見ると、オリジナル性に欠け、目新しくもないし、あちこちから仕入れた情報をつきはぎにして繋いでいるに過ぎないのではないかと、愕然とすることもしばしばです。

一方で、自分自身を見つめなおすつもりで、これまで五感で感じて生まれた記憶の中の風景を基に、心の五感を通して小説を”描いて”います。
こちらは描きだすと、たまに詰まることもありますが、意識の深層にすーっと入り、さまざまな風景を見ることができます。そしてそれを描く。描けるんです。
もちろん好んで読んでいる小説家の影響を受けていますが、それを自覚していても、何とも言えない心地良さがあります。
辛い場面では、辛くなり、幸せな場面では、本当に幸せを感じる。
登場人物になりきって描ける。風景をそのまま感じたままに描ける……

そこで思いました。”書く”ことと”描く”ことに、僕の場合大きな違いがあり、”描く”ことができた時、”描いている”時、心の五感を通じた視線が蘇り、知識や・情報というものに束縛されない、自由な意識の中に自分がいることです。

たぶん、この感覚、状況が、タケセンさんが言われていることに共通しているのではないか……と思うのです。

いつも自分を見つめさせていただき感謝しています。

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人生(たび)の途中2010年12月23日 10:44

わたしは、杣人(そまびと)ですので、、、、

人間に必要なものは「インテリジェンス」だけではなく「エモーショナルインテリジェンス」も併せ持つことが必要だと思っています。。。

「心の知性」。。。これを欠如した「知性」だけで生きてしまうと、どうしても偏向してしまいますから・・・人間界だけで自己完結をしてしまうのです。。。

自然界には、理屈では測りきれないものが存在しているのですもの。
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タケセン2010年12月23日 11:25

Cmoonさんは、他者の問題ではなく、いつもご自身のこととして主体的に捉えてコメントされますが、それは、希有な事で、尊敬します。

「情報・知識」は、もちろんとても大切なわけですが、「感じ、想う」世界が希薄で、記号処理が優先する現代文明は、人間を「つまらない」存在に貶めてしまいます。わたしは、そういう人間の姿を見るのが心底イヤなのです。腹の底から頭の芯から「気持ち悪さ」がこみあげて、心身が不調になるのです。東大病・東大教は「反・エロース」の象徴です。

人間の生は、ほんらい、「感じ想うこと、豊かな感情世界」が先なのに、「情報・知識」を先にする逆立ち・逆転は、生きることからエロース(魅力)を奪います。生きる意味が内的には得られないという恐ろし事態になりますよね。

よいコメント、感謝です。


タケセン2010年12月23日 11:31

人生(たび)の途中♪さん

心の知性は、「意味論としての知」(現代の単なる「事実学としての知」ではなく)がなければ生み出せないのです。

頭の使い方・理性の用い方と、心の知性は、ほんらいは一つなのです。

よい視点でのコメント、ありがとう。

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納得 (ラルゴ)
2010-12-25 11:25:17

この日記を読んで、私がなぜ、タケセンさんの以前お書きになった文章に関心を持ち、面白く感じたのかわかりました。

人間、もちろん生きてゆく上で、情報や知識を持っていたほうがいいけれど、大切なのはその知識の運用能力。

言葉を適切に使い、人に何かを伝えるために知性を働かせることを楽しめる人を教養のある人だと感じるし、そこには押し付けや、ひけらかしが無く、難しい事を可能な限り、解りやすく他者に伝えることの出来る人は素敵です。

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ほんらいの哲学 (タケセン)
2010-12-25 11:43:51

ラルゴさん

心のこもったコメント、感謝です。

わたしは、個別学問の「論理」は単純で面白くないな~、と感じて、もっと広い、もっと深く大きな、意味が豊かな論理はないかな、と思って「哲学」を好きになりました。高校生のときです。小学校での「政治クラブ」(内実は「自由対話」でしたので、「哲学するクラブ」でした)以来の思いが、哲学という全体的=人間的論理に向かわせたのです。
というわけで、大学は哲学科にしましたが、入ってみて後悔しました。大学の哲学科は、哲学する場では全くなく、ただ文献学と語学があるだけでした。

わたしが思う哲学とは、自分の具体的経験を踏まえて、自分の頭で考えること、既存の知識や既存の個別学問に囚われず、大元(人間の生きる意味と価値の問題)から考えること、心身全体の深い納得を目がけ、それに基づいて考えること、だったのですが、大学の哲学は、それとは全く無縁の世界(哲学を個別知識に分解し、その各々を専門とするヘンテコな学)でした。

わたしが、「ソクラテス教室」を開き、『白樺教育館』を創ったのは、わたしが考えるほんらいの哲学を実践するためなのです。1976年のことですから、もうずいぶん昔ですね(笑)。これからが本番ーいつもそう思って取り組んでいます。

これからもぜひ、よろしくお付き合いください。

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(青木里佳)
2010-12-30 23:17:35

現実社会を見ると、悲しいことに、「何かができる」「何かになる」ために生き
ている人が多いのではないのでしょうか。
私もその1人です。今まで自覚していなかったのですが、ある日それを自覚した
時ショックでした。

知らぬ間に企業戦士の考え方・捉え方に染まり、無意識にそのように行動してい
たことをハッキリと自覚した時、「何かができる」と言える人間ではないと認め
られないのではないか、ありのままの自分は受け入れてもらえないのではないか
という恐怖感を長年持って生きてきたことに気付きました。
自分自身を見つめ直すと同時に、影響を与えてきた環境や人間関係を見つめ直
し、その根源となる原因がわかり、愕然としましたが、自覚する前に比べると自
分の問題がハッキリ認識できるようになったので少しは前進できたかなと思います。
恐らく私のように知らずに企業戦士のような考え方で生きてきて、自覚せずに一
生をまっとうする人の方が多いのではないでしょうか。
豊かな感情や心よりも、合理的に考えて生きることが中心になってしまうと、機
械のような人間が増え、その人だけでなく、周りも不幸になります。

自分の五感をないがしろにせず、心で想う世界を豊かにしていくことが大事だと
認識できれば、この世の中で病んだ人は少なくなり、健全な世界になるのではな
いでしょうか。




コメント (4)
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