罪のない人を罪人にする「冤罪」だらけのわが国は、警察官や検察官の人間性が大きな問題となっていますが、それを判決で「正さない」裁判官の行為・人間性は、それに輪をかけた大問題といえます。
なぜ、人間性の欠如した、人権感覚の鈍麻した裁判官が多いのか?
深因は、彼らが愚劣な「パターン知テスト」=司法試験のために青春時代を犠牲にした人たちだからでしょう。
そのテストを通り、法曹界に入れば、生活者の世界とは異なる「異様」な環境の中で生きるために、法律文の独占者となるのです。ほんらいは、ふつうの市民のためにある法律が、わが国の場合は逆立ちしていて、法律家のために法律がある!?という笑えない笑い話になっています。
何のための裁判なのか?誰のための裁判なのか?ちゃんと答えられる裁判官が何人いるでしょうか?
民主制社会の原理を踏まえれば、答えは簡単です。検察官が有罪とした根拠を検証することです。1.不正な取り調べがなかったか、2.物的証拠があるか、その証拠が正しいかどうかを検証し、少しでも検察官に問題があれば、それを正すのが、裁判官に課せられた役割なのです。犯人とされた人を裁くのではなく、検察官の有罪判断を判断するのが裁判官の仕事です。これは、近代民主主義における司法の原理なのです。
わが国の裁判官たちは、この原理を守らず(知らず)、司法界を人事と組織で支配している検察庁の顔色伺いですので、結果として公正な裁判が行われないのです。これは、民主主義の屋台骨を揺るがす事態というほかありません。
まずは、検察庁による実効支配を終わらせること、次に根本的には、パターン知に基づく司法試験のありようを根本的に変えることです。司法試験に限らずですが、テストは、電子辞書の使用を前提にすべきです。現代において求められる知的能力は、思考力・判断力・想像力・創造力なのですから。必要なのは、現実的で柔軟な知力、臨機応変・当意即妙の才です。
話を戻します。
裁判官たちが上記の原理に則って仕事をしなければ、裁判員制度も茶番に過ぎなくなります。何のために、誰のために、どのような原則に基づいて裁判を行うのか。それが明確でないのは、恐ろしいことです。わたしは、関係者に猛省を促します。
武田康弘