近代市民社会の原理は、「一人ひとりの人間存在は、国家に先立つ。」という思想です。
近代以降においては、個々人の意思により社会はつくられるのであり、特定の文化(政治や宗教を含む)の型を強要することは、原理上できません。
近代民主主義は、「自由と責任をもつ個人」がそれぞれの人間存在を対等なものとし、互いの自由を尊重し合うことでつくるルール社会と規定されます。
社会契約論(人民主権を柱とする)に基づく近代以降の社会は、互いの自由と責任によりつくられるもので、それを超えた「絶対者」や「特権者」を認めません。この原理を破れば、必ず、特定の家系やグループの利益を優先する社会となり、また、特定のイデオロギーを強要する社会へと陥ります。
最大のキーワードは、「個人」です。個人が自由意思により行為することで生じる責任という概念を共有することではじめてわたしたちの社会は成立します。公共的次元においては、個人の自由と責任という思想を原理としなければ、社会生活はすべて成り立ちません。クレジットカードで買い物ができるというのも、家のローン契約ができるのも「個人の自由と責任」という思想があるからです。
この原理中の原理である「個人」という言葉=概念を自民党の憲法案はすべて削除してしまいました。呆れるというのも通り越して、言葉がありません。では、なぜ、これほど「おバカ」な憲法案をつくってしまったのでしょうか?
それは、彼らが、近代市民社会の原理を理解できず、明治政府が拵(こしら)えた国体思想=靖国思想=天皇教に憑りつかれているからです。「世襲の皇室・天皇を中心とした日本国」という歴史的に無残に敗北した想念によって再び「国の形」をつくろうとしているからです。
アメリカの日本占領統治と天皇制の存続と旧支配階級の安泰という「利益の合致」により演出された東京裁判=昭和天皇の戦争責任の回避。そのためにねつ造された戦後史(マッカーサーとの会談で裕仁天皇の「自分はどうなっても構わないと」いう発言→実際にはなかったことが判明している。また、「回想録」→意図的に編まれた作文)は、わたしたち市民による市民的自治政治の実現を深部から阻害してきました。一人ひとりが生きる現場から立ち上げる政治や教育ではなく、官僚政府により上から決められる政治や教育。それが、地域や国を主権者である自分たちの意志でつくっていくという心=考え=行為を育てず、先に、あるいは、上に「国というもの」が存在するという倒錯を生み出し、その想念を再生産し続けてきました。洗脳が深く、なかなか解けません。
いま何よりも必要なのは、近代市民社会を生きるわたしたちが、この社会を支えている大事な原理、当然踏まえなければならない上記の原理を明瞭に自覚することです。市民自治を!!
武田康弘