思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

国家に殉じる!?国の悠久の歴史に殉じる!?倒錯した精神=狂気です。では、何に殉じるのか?

2014-04-26 | 恋知(哲学)

 何に殉じるか?
わたしは、わたしの内なる風景と声に殉じる、それ以上の答えはありません。
これは、人間の人間的な生の原理です。
人間的な、というのは、善美に憧れ、真実を求める心のことです。

 

 幻想上の存在にすぎない「国」というものに殉じるとは、狂気の沙汰でしかありません。
「国家のため」という言い方がありますが、そのような「ため」は存在しません。
「国民のため」は可能ですが、国家という観念を実体化=物化(ものか)させた上で、それを愛するとか、そのために、というのは、下着などを性的対象とする倒錯=フェティシズムと同じで、精神疾患です。

 健全な人間は、善美という理念やロマンを持つのであり、憧れ想うのです。
 民主制社会においては、一人ひとりの「私」の力により、一人ひとりの「私」の為につくるのが国家という仕組みですから、国家=仕組みのために、というのはヒドイ逆立ちです。まるで国家という「もの」があるかのごとく考えて、そのために、というのは倒錯=狂気でしかありません。

 政治的な統治機構(state)はありますし、
風土を形成する自然(country)はありますし、
歴史や習慣や言語や文化(nation)はありますが、
次元の異なるこれらの概念をゴッチャ混ぜにして、国とか国家と一口で言うのは、いかがわしい詐術です。

 或るイデオロギー(国体思想=靖国思想)がつくる「日本国家」という観念に殉じる、という人に対しては、「勝手にしたら」とうほかありませんが、
安部首相が自著に書いているように、「国の悠久の歴史や大義に殉じた人を尊敬すべきだ。」と言うのは、特殊な観念=宗教的信条を権力を用いて他者に強要しようとするもので、恐ろしい悪行です。

 

 わたしが殉じるに値するのは、外なる道徳律などではなく、「私」の内なる風景と声=「私」の抱く善美の世界のみです。よく見つめ・想い、心の声を聞く習慣をもち、内的・内発的に日々を生きる充実を目がけるのです。そういう「私」から立ち昇る言動のみが、真に価値ある、自他の利益となる公共性=相互性をつくります。

 赤裸々な私の存在を開示するのが恋愛(エロース神の力)ですが、その恋愛が象徴する「私」の存在こそが、人間が生きる始発点であり終着点です。

 どのようなものであれ、「集団」からの出発は嘘の世界しかつくりません。「国に殉じる」「歴史に殉じる」という発想は、幻想価値を現実価値と見る倒錯により成立するものですが、そのような倒錯は、悲劇とおぞましさを生むだけのこと。自他を不幸に沈めます。


武田康弘

 

 

 

 

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