思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

武田哲学へのインタビュー第6回    ほんとうの教育とは?     内田卓志

2015-07-12 | 教育

それでは、また続きを伺います。     内田卓志

 「対立」とは?よくわかりました。先生の実存概念は、決して過激なものではなく、徹底的・根源的な、まさにラディカルです。私にはよくわかります。
かつて私は、ヤスパースの実存哲学を学びました。ヤスパースの実存哲学に、「実存的交わり」という概念があります。交わりとは、英語のコミュニケーション:communication(ドイツ語だとコムニカチオーン:Kommunikation)をさします。その実存と実存の交わりは、「愛しながらの闘い」だともいうのです。私は、ここでヤスパース哲学の解説をしたいのではなく、ヤスパースのいっていたことが、先生がいわれている「対立」という行為を通して、私の記憶の底から立ちあがってきたのです。

 それでは、そろそろ教育の問題に移らせて頂きます。先生は、40年ぐらい私塾を通じ教育の現場に携わって来ておられますね。先生の教育の理念を伺いたいところですが、話を具体的にさせた方がよいと思います。そこで、今の学校教育と白樺教育館の教育の違いからお話し頂きたいと思います。その方が、具体的な教育の現場の経験から、教育における主観性の知の意味について一層理解できるように思います。如何でしょうか?

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 (63歳のわたし・クリックで拡大)

 わたしのフィロソフィと実践を踏まえた教育論は、いろいろな雑誌や本またblogにずいぶん書いてきましたので、まとめると一冊の本になりますが、核心をいくつか。

 まず、何よりも機械的な学習は最悪です、『公文式』はその最たるもの。反復して覚える九々にしても、意味(かけるというイメージ)を頭に浮かべての反復が絶対であり、単なる数字ー記号としての丸覚え=機械的反復は、ナンセンスの極みです。

 もうずいぶん昔にアメリカの教育省は、公教育に『公文式』を使うことを禁止しましたが(教育省の追跡調査で、公文式を採用した学校の卒業生は創造性に欠けるという結果が出たので、とNHKの番組が詳細に伝えていました)、わたしの教室でも『公文式』をやっていた子は、機械的に算数をするために、文章題の意味を捉えることがひどく苦手です。はじめから『ソクラテス教室』で、生活経験やその子の興味と重ねて「意味が分かる算数」を勉強した子とは、頭の構造が根本的に違ってしまいます。

 算数に限らず、知的教育は、丸暗記とパターン認識(それはコンピュータの方法)ではなく、自分の頭で意味を捉える力の育成です。学習において【意味】を了解し、つかまえる方法を身に付けなければ、一人の人間としての精神的自立は得られません。これは、知=頭脳の原理です。意味論なき事実学の累積は、事実人(犬でも猫でもなく人という種ではあるが人間的な意味をもった「私」を生きられない)しかつくりません。学業成績(テスト知)が極めてよい子の多くが、他者(権威者や権力者)に操作操縦される優秀な!?「事実人」に陥っているのが現実です。実に恐ろしいことです。

 音読でも、スラスラとアナウンサーのように読めることを目標するのはバカげた話です。文脈にそって意味を捕まえながら、また、情景を思い浮かべながら読むこと、論理的な意味把握と、感情移入が何よりも大切です。つっかえたり、かんだりしてよいのです。スラスラを心掛けるのは、頭を悪くするだけのことなのです。

 また、理科は、伝えたいことの核心の意味が示されずに、凹凸のない知識が羅列され、それを覚えるだけなので、子どもが興味の持ちようがなく、教科書や副教材を見ているわたしも苛立つことが多いですが、学校の教師もこれでは苦労するでしょう。さらに、直接経験が少ないことも大問題です。「白樺教育館」の屋上に設置している望遠鏡(口径21センチ反射赤道儀)で月面や惑星面を見た感動は驚きの声で分かりますが、いま、直接に、という経験抜きに机上の学習をするのでは、知は干からびたものにしかなりません。また、海に潜る経験、毎年の式根島のでのキャンプ&ダイビング(今年で40回目)は、「得難い経験をさせてもらい、先生にほんとうに感謝しています。」とOBや父母のみなさんから口を揃えて言われます。

 社会科は、有名人の暗記で、生きた人間の営み=自分たちの今の生とは無関係です。出てくるのは〇△天皇という名前が中心で、明治政府がつくった「天皇史観=偉人史観」のまま。庶民は付けたしの存在扱いです(笑・憤)。
  近代史は、例えば、伊藤博文は初代総理で明治憲法をつくった偉人とされますが、英国公使館に放火し全焼させたこと、暗殺者であったこと、大金を横領したことなどは一切触れられませんので、偏ったイデオロギー教育になり、真実がもつ面白さ、多面的な世界の不思議はすべて消されています。平面羅列で知が立体化しないのです。意味の分からない丸暗記ばかり。いつまで続く~~~。
 わたしの教室で歴史に興味を持ち、成績もよい子は、マンガ『日本の歴史』『世界の歴史』(白樺教育館の蔵書)の愛読者だった子です。ついでに、現代史=戦前の日本を学ぶのに最適なのは『はだしのゲン』(蔵書)です。著者の体験談は、建前のウソではく、ホンネと真実のもつ迫力が実に面白いのです。公民はその最たるもの。

 お題目、表層的、建前、ごまかし、騙(だま)し、では、人間としての自信とよろこびをもつ子、ほんとうに優れた子が育つはずがありません。せいぜい偽善者が育つだけ。

 

 次に人間教育です。

 政府が行う道徳教育と呼ばれるものは最悪です。フィロソフィ(恋知)の実践教育こそが必要なのです。政府文部省が介入する「道徳」とは、背後に特定の思想を必ず隠し持っていますので、本質的に占脳=染脳教育以外にはなりません。これは、特定の政治勢力(自民党の文教族)が行う教育では決して避けられないことで、反教育=ダメ教育の見本です。

 人間を育てるどころか、人間の可能性を狭めて型にはめるだけのことです。「道徳教育」とは非・人間教育でしかありません。自分の経験を踏まえて、種々の情報を吟味し、自分の頭で考えたことを自由に交換・交感するフィロソフィの実践教育こそ、大きく深い【民主的倫理】をもった子=人間を育てるのです。
 アメリカのマシュー・リップマンとその同伴者たちが全米の公教育で実践してきた「6歳からのソクラテス教室」や、フランスの公立幼稚園で行われている「幼児の哲学教室」などは、極めて示唆に富む実践ですが、わたしの「ソクラテス教室」では、そうした思想-精神で、もう40年間も試行錯誤を続けてきました。「孤立」ですが、栄光でもありますね。
世界の最先端!!(笑)

 (クリックで拡大「わたしの道をまっすぐに!」二歳の孫)

 最後に一番大切な幼児(1歳から2才くらいの最重要期間とそれ以後)ですが、とにかく、大人の常識に縛られずに(大人が自分のもつ常識を白紙に戻して大元から問い直す営みが一番大切)、【こどもを無条件で愛する】ことが絶対条件なのは言うまでもないことです。その基盤があれば、こどもは深く自己肯定ができますので、どのような困難にも負けず、打ち勝ち、自分自身の人生を歩むことが可能になります。

  また、イタズラ、悪さ、おどけ、ふざけ、は何より大切で、「小利口」や「小さい大人」のような子どもにするのは、言語に絶するほどの「悪」です。
以下は、10年以上前に出したものですが、再録します。
 

  お母様、お父様、 教育とか躾(しつけ)と思って子どもの心を抑圧し、歪めてはいませんか。
 発育、発達には順番があります。子どもは、十分にふざけ、おどけ、ばかを言い、けんかをし、悪さをしなければ、まともな大人にはなりません。早く大人にしようとすれば、小利口のつまらない人間か、外見だけを整えた偽善者か、心の深部に不満を抱えた犯罪予備者にしかならないのです。
 高校生になり、二十歳になって「狂って」いる青年は、幼少期―小学生までの時期に、十分にばかを言い、やれなかった(親や教師によって抑圧された)子どもたちの姿です。
 順を踏むこと、「飛ばし」の英才教育をしないこと。これは教育の原理です。子どもは自分でいろいろと試してみる時間的ー精神的余裕を持てないと、主体性を持ち、自分で考える人間にはなれないのです。子どもを「病気」か「ロボット」にするために必死で努力する!?愚かです。
 生活=体験=直観に根差した「意味」の分かる心と頭を育てる条件は、子どものありのままの心を受け入れ愛すること、急がずに順を踏むことです。必要なのは、「おどけ・ふざけ・悪さ」を許容し、楽しむ心です。一段ずつ階段を上ること。「飛ばし」をすれば、内的には悦びをもてない人となり、不健康な人生を招来します。


 

  なお、ここで述べた教育思想は、会社での社員教育もその原理は一緒で、応用できます。この前にお示しした『日本オラクル』の初代社長・佐野力の社員教育は、わたしの理念を具現化したものが中心で、わたしのインタビュー映画がつくられ、オラクルの全社員(15年前で1300名)はそれを見てもいますよ。

 

武田康弘

 

 

コメント (1)
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