思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

『恋知』とは、自分の「内的な善美を意識的に座標軸にする」ことー超越項(神、国家、伝統・・)を置かない

2015-07-25 | 恋知(哲学)

fbの友人、小林 秀晴さんからコメントがあり、わたしは、それを普遍的な問題だと思いましたので、以下のように返信しました。

「 「ニッポン偉がり症候群」 (武田の指摘=言葉)ーーー これに関して下世話な思いを書きますが・・ 民主的な人間でありたいと思う自分の中にも、近隣の者より「偉がりたい」という潜在意識というのが存在するのではないのかと・・(小林 秀晴)」

というコメントを受けて、確かに、自他を比較して自分の優越を思ったり、他家と自家を比較して家柄を誇ったり、他国と日本を比較して偉がったりするのは、人の常かもしれないと思いました。

 わたしの提唱するフィロソフィ=『恋知』とは、自分の「内的な善美を意識的に座標軸にする」ことで、【自他の比較を無意味・無価値なものとする】生の態度ですので、それをコメントにしました。

 

「小林さん、正直に赤裸々に、よいコメントありがとうございます。これを受けて、わたしの思想の核を簡単に書いてみます。

 釈迦は哲学者でしょう(「神」という超越者を置かず、世界説明もしない)。
  彼の天上天下唯我独尊(人はみなほんらい「唯我独尊」である)という見方に立ち、「自帰依・法帰依」(自分の心と法則に従う)という基本の思想につくならば、
 国家や民族やなにがしかの伝統を偉がるという想念は生まれようがないはずです。 生の意味と価値は、「私」の存在からはじまるほかはないという原理の明晰な自覚は、深い「精神的自立」を生みますが、どこかに【超越項】(たとえば「絶対神」とか「国家」とか「日本民族」とか「天皇・皇室」とか「伝統」とか「マルクス主義」とか「他者」とか「東大」とか・・・)を置けば、そこを座標軸に物事・事象を見ることになります。
  【超越項】を置かずに、「私」の善美の座標軸(深く納得できる内からの声)につく生き方の実践が最も「よき生」だ、というのが わたしのフィロソフィ=恋知です。ぜひ実践され、広めてくださいませ。」(武田)


なお、以下は10年以上前に出したものですが、関連しますので、貼り付けます。

    哲学の答え-ー人間の生きる意味

  人間が存在している理由を問うことはできません。
「私は何のために存在しているのか?」と問うことは背理なのです。何のために、誰のために、という目的はありません。私は、ただ一人の人間として存在しているだけで、定まった理由はないのです。
 
 わたしを取り巻く一切の世界を意味づけ、価値づけ、秩序づけているのは、人間の意識=私です。私の意識が出発点であり、究極の動因であり、それが何のため?を問うことは、悪しき形而上学=宗教にしかなりません。

  この世のすべてに意味を読みこんだり、与えたりしてるのは、私の意識ー私の関心であり、人間は、自分の存在を肯定できるような理念やロマンを産み出し続ける存在です。産み出し続けることができなくなった時、人間は人間性のよさを失います。ただ生存しているだけの存在になります。

 人間は、「自分の抱く理念やロマン」を他者に示し、試すことで、それを吟味し、豊かにしていく存在であり、その営みが、人間の生きる意味をつくり出すのです。生きる意味とは、私が読み込み、私がつくりだすものなのです。

 

  唯一、人間の人間的な生を支えるのは、憧れ想う世界です。

 よいことや美しいこと(真善美)を希求し続ける心が失われれば、人間は実存するのではなく、ただ生存しているだけの存在に陥ってしまいます。

  手に取ることも目に見ることも出来ないロマンや理念の世界 - よいこと・美しいことそのものの世界 - 憧れ・想う世界、この「幻想価値」の世界が唯一、人間の人間としての生を支えるのです。

   即物的 - 現実主義的な想念の中では、人間は人間として生きることができません。人間にとって真に実在するものとは、価値と意味の世界=「幻想世界」であって、【意味】のない只の事実や只の物質というものは、存在しないからです。

   ロマンや理念、憧れ・想う世界を失えば、人間は、輝き、張りや艶、悦びや愉しみを失って、灰色の固まりへと転落してしまいます。

  心は消えてしまうのです。


   7月22日 白樺教育館屋上 2才の孫

コメント
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「集団的自衛権」という言葉自体が、おお嘘です。バカやウソは、やすみやすみにしてください。

2015-07-25 | 社会批評

いまさらですが、よくもこんな嘘を平然と言い続けるものだと感心しています。

自然権でもあり憲法9条でもある「正当防衛権」を認めるのは当然で、それを自衛権というのはまったく正当な話ですが、
海外に行って戦争に参加する権利が自衛権とは、言葉の常識を超えていますよね、これでは国語になっていません。

自衛隊とは自衛のための存在ですが、
海外で他国(主にアメリカ軍)と一体になり戦争を行うのでは、自衛隊ではないですね。たんに「日本軍」です。
安倍首相や麻生副首相ら閣僚ほぼ全員がメンバーの『日本会議』の思想では、日本軍ではなく「皇軍」でしょう。今の皇室は大迷惑でしょうが。

自衛権ではなく他衛権です。安倍クンのたとえ話の説明では、「友達の麻生クンが不良に喧嘩を売られていたので、僕は助けに入る」と言います。麻生くんの喧嘩に僕が加勢するというわけです。なんで自衛!!??満点大笑いですね~~~~~

集団的な戦いの権利です。

集団的自衛権ではなく、【集団的戦争権】です。こんな簡単なことも分からないのなら、ただの低能にすぎません。

今までの自衛隊は、万一、他国から攻められてきた時に防衛する権利を行使できるとする「自然権」(正当防衛)の立場ですから、確かに自衛権でよいですが、海外に軍隊として出ていき、戦争に参加するのも自衛だと言うのなら、戦争はすべて自衛だ???ということになります(笑)

【集団的戦争権】を「集団的自衛権」と言う大嘘をまずはやめてから議論をして頂きたいものです。

バカも休みやすみにしてほしいですね。日本中、日本語も満足に使えない人ばかり?

 

武田康弘(教師)

追加(コメント欄に)

なお、膨張する中国との関係で、アメリカ軍との一体化が必要であるとの主張とリンクさせて、国連でも「集団的自衛権」と呼んでいるではないか、という意見を言う人がいますが、いま安倍政権が審議している「違憲」法案の主目的であるアメリカ軍への加勢と一体化は、国連が特例として認める「集団的自衛権」と呼ぶ事態には全く当たりません。中国は国連の五大常任理事国であり、その中国との戦争を想定して「集団的自衛権」ウンヌンなどは論外も言いところです。

また、集団的自衛という言葉が可能な事態は、きわめてわずかの特例しかありません。過去のアメリカ軍の戦争は、到底「自衛」とは呼べません。ベトナム戦争→アフガン、イラク戦争まで、自衛とは縁もゆかりもないのは誰でもが知る通りです。

 

今行われているアメリカ軍の要請で自衛隊を出せるようにすることが主目的の法案(違憲の法案)は、集団的自衛ではなく、集団的戦争そのものです。

 

コメント (3)
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