fbの友人、小林 秀晴さんからコメントがあり、わたしは、それを普遍的な問題だと思いましたので、以下のように返信しました。
「 「ニッポン偉がり症候群」 (武田の指摘=言葉)ーーー これに関して下世話な思いを書きますが・・ 民主的な人間でありたいと思う自分の中にも、近隣の者より「偉がりたい」という潜在意識というのが存在するのではないのかと・・(小林 秀晴)」
というコメントを受けて、確かに、自他を比較して自分の優越を思ったり、他家と自家を比較して家柄を誇ったり、他国と日本を比較して偉がったりするのは、人の常かもしれないと思いました。
わたしの提唱するフィロソフィ=『恋知』とは、自分の「内的な善美を意識的に座標軸にする」ことで、【自他の比較を無意味・無価値なものとする】生の態度ですので、それをコメントにしました。
「小林さん、正直に赤裸々に、よいコメントありがとうございます。これを受けて、わたしの思想の核を簡単に書いてみます。
釈迦は哲学者でしょう(「神」という超越者を置かず、世界説明もしない)。
彼の天上天下唯我独尊(人はみなほんらい「唯我独尊」である)という見方に立ち、「自帰依・法帰依」(自分の心と法則に従う)という基本の思想につくならば、
国家や民族やなにがしかの伝統を偉がるという想念は生まれようがないはずです。 生の意味と価値は、「私」の存在からはじまるほかはないという原理の明晰な自覚は、深い「精神的自立」を生みますが、どこかに【超越項】(たとえば「絶対神」とか「国家」とか「日本民族」とか「天皇・皇室」とか「伝統」とか「マルクス主義」とか「他者」とか「東大」とか・・・)を置けば、そこを座標軸に物事・事象を見ることになります。
【超越項】を置かずに、「私」の善美の座標軸(深く納得できる内からの声)につく生き方の実践が最も「よき生」だ、というのが わたしのフィロソフィ=恋知です。ぜひ実践され、広めてくださいませ。」(武田)
なお、以下は10年以上前に出したものですが、関連しますので、貼り付けます。
哲学の答え-ー人間の生きる意味
人間が存在している理由を問うことはできません。
「私は何のために存在しているのか?」と問うことは背理なのです。何のために、誰のために、という目的はありません。私は、ただ一人の人間として存在しているだけで、定まった理由はないのです。
わたしを取り巻く一切の世界を意味づけ、価値づけ、秩序づけているのは、人間の意識=私です。私の意識が出発点であり、究極の動因であり、それが何のため?を問うことは、悪しき形而上学=宗教にしかなりません。
この世のすべてに意味を読みこんだり、与えたりしてるのは、私の意識ー私の関心であり、人間は、自分の存在を肯定できるような理念やロマンを産み出し続ける存在です。産み出し続けることができなくなった時、人間は人間性のよさを失います。ただ生存しているだけの存在になります。
人間は、「自分の抱く理念やロマン」を他者に示し、試すことで、それを吟味し、豊かにしていく存在であり、その営みが、人間の生きる意味をつくり出すのです。生きる意味とは、私が読み込み、私がつくりだすものなのです。
唯一、人間の人間的な生を支えるのは、憧れ想う世界です。
よいことや美しいこと(真善美)を希求し続ける心が失われれば、人間は実存するのではなく、ただ生存しているだけの存在に陥ってしまいます。
手に取ることも目に見ることも出来ないロマンや理念の世界 - よいこと・美しいことそのものの世界 - 憧れ・想う世界、この「幻想価値」の世界が唯一、人間の人間としての生を支えるのです。
即物的 - 現実主義的な想念の中では、人間は人間として生きることができません。人間にとって真に実在するものとは、価値と意味の世界=「幻想世界」であって、【意味】のない只の事実や只の物質というものは、存在しないからです。
ロマンや理念、憧れ・想う世界を失えば、人間は、輝き、張りや艶、悦びや愉しみを失って、灰色の固まりへと転落してしまいます。
心は消えてしまうのです。
7月22日 白樺教育館屋上 2才の孫