赤ちゃんは、人間としてうまれてきます。
人種の違いこそありますが、国別の存在として生まれるのではありません。
赤ちゃんは、日本人、韓国人、中国人・・・それぞれの言葉・文化の中で育ちますが、その違いの底に共通する人間存在としての命を生きるのです。
人間は、どこの国の国籍を持とうが、それ以前に人間存在であること。この前提に立って物事を考えないと、愚かな想念に囚われ、危険思想を生んでしまいます。いわゆる国家主義へと堕ちるのですが、この陥穽の恐ろしさを世界は忘れつつあるようです。
赤ちゃんは、おとなよりもはるかに鋭敏に、「愛」という命にとり最も大切な感情を知っています。人間のよき生、とりわけ幼子に特定のイデオロギー(例えば戦前の「教育勅語」)は無意味・無価値です。幼子は、言葉や形ではなく、その人がほんとうに愛ある存在か否かを鋭敏に感じ知ります。ウソやゴマカシは通じません。
利害・損得計算の人、躾と称して形式主義を強要する親、これが国柄だと称して思想や主義を注入しようとする大人・・・そこには愛がないことを幼子は分かっています。
幼子は、ほんらい人間は自由であり、生まれた国や文化や状況の中から、自分自身にあったエロース(魅力価値)を汲みだすのが人間の生き方であることを先験的に承知しています。それが分からないのはダメにされた子どもである大人だけーあなたは大丈夫?(失礼)。
幼子は生れながらにして、「秩序」は、強制されるものではなく、学ぶものであることを知っいます。どのような秩序が必要かは、幼子自身が試しつつ学ぶのです。納得をつくるために、毎日試行錯誤しています。大人が急いで秩序化しようとすると、納得=腑に落ちることがなく、怖いので従うだけの存在になります。
精神の自由と自立と豊かさのない人、ただ事実として人間であるだけの存在=「事実人」に陥るのです。まるでAI=認識する電子機器のような、あるいは楽譜を正確に弾き歌う自動人形のような、あるいはスポーツ競技をするマシーンのような、あるいは人間のよき生への探求がない技術オタクのような、です。
そこには内から湧き上がる愛がなく、自由な精神がなく、エロース豊かな存在の魅力がありません。あるのは、他者との競争=勝ち負けのために生きる戦士であり、それへの称賛です。すべては外です。外的価値に支配された人間は、内的秩序をもつソクラテス的人間、自分自身の内なる声に従うことを教えたブッダ的人間とは無縁の存在です。
どこの国に生まれようが、赤ちゃんは、みな自分自身として生きようとしているのです。それを破壊しようとする大人の所業は、これ以上はない根源的悪であることを知らねばなりません。
武田康弘