実存ということばを西欧近代思想の文脈で定義するのはやっかいです。
キルケゴール、ヤスパース、ハイデガー、サルトル・・・・は、「実存」を各自が異なる意味で使っていて、厳しく対立もしていますので、統一した定義は困難ですが、
わたしのいう実存とは、日常語の延長としての平明な意味ですので、誰でもが了解できると思います。
人間は、物の存在とは異なり、意識存在です。そして、一人ひとりの人間は異なる意識をもつので、単に人間存在とは言わず「実存」と呼ぶわけです。各自が違う存在であることを前提にして人間を見るのでこの言葉を使います。
人間は、自分をとりまく世界を見て、なにかしらを感じ、想いをめぐらしますが、それは人それぞれです。とりまく世界だけでなく、自分自身も対象として見たり、分析したりします。
ある物事・事象を皆がどう見るか ではなく、わたしにどう見え・どう感じられか につくことが、思考の「はじめの一歩」となります。
正直なわたしの心につくことで、「何がよいのか・ほんとうなのか」を考えることが始まります。みなが言うからという「一般的」な答えは、思考の出発点にはなりません。ほんとうに私が思うことから始めないと、ウソを前提にすることになり、思考は泥縄となってしまいます。
そういうわけで、一人ひとりが、ありのままのわたしを自覚する営みによって「実存思想」はスタートします。自分を自分でだます自己欺瞞の人だと、実存思想はいつまでも始まりません。なにかしらの主義や宗教ではなく、わたしの思い(感じ、想い、考える)からはじめ、そこから逃げないことが必要です。
一般的な学問あるいは権威や常識を前提にしないで、私=実存につくことではじまるので、実存思想と呼ぶわけです。「勉強」という既存の枠を優先する外的な秩序と世界ではなく、私の興味や関心によりはじまる「学習」(わたしが学び、習う)という内的な秩序と世界をつくるのが実存思想です。
武田康弘