思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

西欧近代哲学の終焉(17世紀~20世紀)と恋知。 実存思想の復興 14日(水)は恋知の会

2018-11-12 | 学芸

 「近代哲学」と呼ばれる17世紀のデカルトにはじまる西ヨーロッパの思想は、「スコラ哲学」(キリスト教神学)の改革として出てきたものです。
 これは、本質的にキリスト教の世俗化としての理論体系ですので、スコラ哲学がめがけたもの=人間存在と世界の全体をトータルに解明し叙述しようとする意思を受け継いでいます。そのために、理論は複雑で難解となる宿命をもち、言葉の構築物としての論理の体系となり、カントからへーゲルに至るドイツ観念論でピークに達しました。

 人間存在と世界の全体をトータルに解明し叙述するというのは、宗教の宣託のようなものでない限り出来えない不可能事ですが、その出来えないことの努力を続けたのが西欧の「近代哲学」だと言えます。その歴史は、20世紀最大の哲学者といわれたハイデガーが、1966年に行ったシュピーゲル対話で幕を閉じたと言えます。

 シュピーゲル対話では、ハイデガーは、哲学にはもはや何も期待できないと言い、従来の哲学の地位はサイバネティクスが占め、諸科学が哲学の替わりをする、と主張しました。哲学は無力だと繰り返し述べ、われわれ人類にできることは、何百年後かに現れる「神」のようなものを待つだけだ、と言いましたが、これは、ハイデガーの存在論(人間と世界のトータルな解明)の挫折であり、「哲学の敗北宣言」と言えます。

 17世紀に始まり20世紀に終わったのが西欧近代哲学と言えますが、この西欧哲学(キリスト教という一神教がバックボーンにある)は、ルネサンスの運動で明らかなように、古代エーゲ海文明への憧れに端を発していて、ギリシャのフィロソフィー(恋知)を換骨奪胎してキリスト教神学をつくり、その上に乗ったものでしたから、相当な無理の上に建てられた思想(形而上学)の建造物であったわけです。

 現代に求められるは、すでに命を終えている西欧近代哲学の思想の枠組みに囚われずに、日常の言葉で、自からの体験を踏まえて、自分の頭で考える営みです。外部に絶対を置かず、何かに頼るのではなく。
それがわたしの提唱する「恋知」で、特別な知識とは無縁ですから、誰でもが出来ます。宙に浮いたような話ではなく、足は大地に根を張り、心身の全体で会得する知を基盤にして、そこから考えを自由に羽ばたかせるのです。遠く(雲や空や星)を見る習慣をもつことで視線を無限遠にし、のびのびと想念を広げます。書物に囚われずに、固着や厳禁の精神、固真面目を避けて、柔らかくしなやかに考える営みです。

 それは、紀元前5世紀に現れたエーゲ海・アテネのソクラテス、 ネパール・インドのブッダ、 中国の老子などの実存思想とつながる温故知新の営みです。


武田康弘

  明後日の14日(水)は、恋知の会です。いつも通り、1時開場、1時30分開始、4時30分まで。白樺教育館で。

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