タケセン面白語録と対話。
神?神社? 意味が違うが唯一神?どれにも用はありません(笑)わたしは、自然に任せるのみ。神頼みだの、合格祈願など一度もしたことがありません。神社のガランガランで遊んだだけ(笑)初詣もしません。お墓参りには行きます。思い出がありますからね。
わたしは、神頼みをしたことはなく、考えたこともない。Powerspotだのバカバカしくて行ったことはない。
何があろうと私自身の存在を頼み、Powerはわたしから発するもの。自分に依り、自然に任せる大きな心をもつこと以上はない。
それがわたしの不動の確信です。
時々酷い事態を見て「神はいないのか!」と言う時あるけど、そもそも私は無神論者だったあるある。
うん、そもそも無神論という言葉自体が、欧米のキリスト教文化から出たもので、とても不自然ですね。
スコラ哲学(キリスト教神学)の改良として生まれた17世紀デカルトにはじまり20世紀ハイデガーで終焉した「近代西欧哲学」は、キリスト教が大元にあるために、それへのアンチを「無神論」「唯物論」として排撃しました(ジョン・ロックの「寛容論」は宗教的寛容を書いた本ですが、例外として「無神論」(唯物論)とカトリックをあげて、それは許しがたいものとしています)。
そういう文脈にはなく、インドのブッダの思想を下敷きにした文化は、もともと神(絶対神)という発想がなく、もっと思想が深いのですね。インド思想はブッダの(同年代のソクラテスも)以前に1000年の歴史があります。唯一神という特殊な思想をもたない文化ですから、無神論とか唯物論という言い方は、言葉が成立する土壌がないので、言葉が浮いてしまいます。
西欧化を正しいという深い洗脳を全員が学校教育で受けていますので、近代西欧思想(キリスト教という一神教が根にある)からそれ以前の古いものも位置付けるという愚を学者や教師たちが行うので、みなが自然と洗脳されてしまいます。
長くなり失礼。
そう無神論、って言葉もしっくり来ないんですよね。
アルナシでさえなく。
地震雷神親父。
「わたしの辞書に神はない」(笑笑)
みな、自分自身の中に至高はあり、外にはないのですね。それを皆が自覚すれば、世界は変わる、というのが「恋知」という根源的な思想です。
そして、自分を含む全体は、他力です。法然、親鸞のいう他力、自分ではどうにもならぬものは、自然に任せるということです。任せきる、という心になると、不思議なことに自ずとパワーが湧き出てくる、それが他力本願の深い意味です。