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北の方「そがいとくちをしきこと。おのが思ふやうは、あまねく人知らぬ先に、部屋に籠めて守らせむ。女思ひたれば、出であひなむず。さてほど過ぎて、ともかくもしたまへ」と申したまへば、「いとよかなり。ただ今追ひもて行きて、北の部屋に籠めてを、物なくれそ、しをり殺してよ」と、老いほけて物のおぼえぬままに宣へば、北の方、いとうれしと思ひて、衣高らかに引き上げて、落窪にいまして、つい居たまひて、「いといふかひなきわざをなむ、したまひたる。子どもの面伏せにとて、おとどのいみじく腹立ちたまひて、『こなたに、な住ませそ。とく籠め置きたれ。われ守らむ。ただ今追ひもて来』となむど宣へる。いざたまへ」と言ふに、女、あさましくわびしう悲しうて、ただ泣きに泣かれて、いかに聞きたまひたるならむ、いみじとは、おろかなり。
「リング」の貞子さんは、井戸に落とされて殺されてしまうが、井戸がいつの間にか空いており、念慮が這い出てきてしまう余地がある。落窪の姫の最初から窪んだところにいるが、男の人に好かれたり連行されたりして移動する。「北の部屋に籠めてを、物なくれそ、しをり殺してよ」――これが最初から実現したら危なかった。しかし、我々はそれが案外実現しない物語を紡いできている。「リング」はその不在の主人公が、幽閉されて死んだに違いない事態をえがいていたから怖かったのである。それは、ビデオやパソコン、いやその前にテレビの画面であるが、これが現実を閉じ込めているようなものであることが我々の閉鎖空間への欲望を駆り立てているのかも知れない。