★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

労働者としてのお姫様の夢

2025-02-15 22:43:51 | 文学


「さもあらず。『まだ御殿ごもりたり』と、あこきが申しつるは」と言へば、北の方、「なぞの御殿ごもりぞ。物言ひ知らず。何われらと一つ口に。なぞ。言ふは聞きにくし。あな若々しの昼寝や。しが身のほど知らぬこそ、いと心憂けれ」とて、うちあざ笑ひたまふ。
 下襲裁ちて、持ていましたれば、驚きて几帳の外に出でぬ。見れば、表の袴も縫はで置きたり。けしき悪しうなりて、「手をだに触れざりけるは。今は出で来ぬらむとこそ思ひつれ。あやしう、おのが言ふことこそあなづられたれ。このごろ御心そり出でて、けさうばやりたりとは見ゆや」と宣へば、女いとわびしう、いかに聞きたまはむと、我にもあらぬ心ちして、「なやましうはべりつれば、しばしためらひて」とて、「これはただ今出で来なむものを」とて、引き寄すれば、「驚き馬のやうに手な触れたまひそ。人だねの絶えたるぞかし、かう受けがてなる人にのみ言ふは。この下襲も、ただ今縫ひたまはずは、ここにもなおはしそ」とて、腹立ちて、投げかけて、立ちたまふ


我々はトランプを馬鹿にするけれども、その実、骨の髄まで資本主義の病に冒されているので、古事記でスサノオが機を織っている女人に乱暴し、その家の畑を荒らしたときいて、なんで貴人レベルが労働者を虐めているんだと思ってしまうが、昔は神の家でもちゃんと家の中で生産と消費の循環があった。むろん、武士の家のほとんどが自作農みたいなものだったのはよく知られていよう。で、落窪のおひめさまも、裁縫をやらされて、変なところに住まわされているとはいえ、裁縫係としての地位を与えられている。故に、次の復讐の土台も用意されているといえるのであった。これが、追放されていたり、虐めもなくほっておかれていたら逆になんにも起こらなかった可能性があるのではなかろうか。

我々は、労働者として奴隷なのか?果たして労働者であることをやめれば奴隷にならなくて済むのか?

教師志望が減ったというのは、教師が国家の走狗(労働者)と化し、ついでに子どもと親の下僕となってしまったことに起因するけれども、教育界のみずから進んで、教育ではなく支援だみたいなことを言って、国家にも子どもや親にもいい顔をしようとしてきたつけでもある。教師の権力はつねに批評されなければならないが、教育は政治と同じく、知でもって統治や運営を担うことであって、それへの誇りや快感を奪ってしまっては、有能な奴がそこに参入するわけがない。ときどき、自分は不登校やいじめにあっていたので逆にそういうことを考えられる教師になりたいという学生がいて、その志はいいとおもうけれども、教師はもっと統治の過酷な快をともなうので、それだけじゃだめなのだ。不登校やいじめでなくても、いまいち勉強が出来なかったので、でも同じである。そうはみえなくても、教育は知の統治である。そのうえで教師もいろいろあっていいよ、ということにならなくてはならないのではなかろうか。

こういう教師のような統治者は、実際は目的が子どもの権利や未来を守ることであるから、いわば「縁の下の力持ち」であるという逆説を生きることになる。しかし、かかる「縁の下の力持ち」みたいなのを讃える文化をいまの評価システムは粉砕してしまった。が、これは単に業績を上げさせる人参馬車馬システムではない。なぜなら、社会の変容や改革は「縁の下の力持ち」の集積によるしかないからだ。それを機能不全にさせることが真の目的だ。そういうものを推し進めてきた人間が馬鹿でなければそのはずである。

小中高でも児童会やら生徒会やら部活やらの運営をこどもやりたがらないのも、慰め合いみたいなコミュニケーションばかりして運営の価値を讃えないから、できるやつが虐められたくないからやりたがらず、ただ威張りたいヤバイ奴の台頭を許している。リーダーは縁の下の力持ちであるぐらいしか価値がないのである。本当はそれがコモンセンスだ。だからこそ、そういうヤバイ奴の中には猫被りがうまいタイプがいて推薦入試候補に潜り込み、大学で本性を現したりしている(以上だいたい妄想)そういう人間の下ではその他の人々には、学級崩壊かひたすら沈黙して我慢するとかしか方法がなくなる。そして実現するはずのない夢を実現しますと言い続けて死ぬことになる。その夢も貧弱きわまりないマンガ化されたものだ。

まだ、戦前の国家は正直で、そのマンガ化しがちな夢に物質的なものをあたえようとした。よく転向左翼が満州に渡るのをその転向の証拠として論じる人もいなくはないのだが、当然、「アカ」を我が村から追い出せみたいな目に遭って満州に逃げた側面があるわけだし、あからさまに「満州にいってしまえ」と村長などに言われた人もいたと聞いた。王道楽土とか言ってるが、そんなものである。マンガ化された夢であることを前提にしていたのである。

落窪の場合は、裁縫をする人々が団結するのではなく、なんだかマンガ化したスカトロ的なドタバタで生じるカオスが復讐となっていったようだ。姫が裁縫に崇高な夢を付与しなかったのも悪い。結局、夢は男に掠われることであったのであろうか?しらんけど。人の悲しみや苦しみをそのままでは我々は信用できない。

太宰が女酒に執着せずきちんと赤化していたならば、「恥の多い一生を送ってきました」ではなく、「税の多い一生を送ってきました」、が名言となったであろう。


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