★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

現代の悲劇と喜劇、及び全体性について

2025-02-24 23:38:10 | 文学


あこき、わびしきこと限りなし。北の方、殿の御台参るほどに、はひ寄りて打ちたたく。「誰そ」と言へば、「かうかうのこと侍るなり。さる用意せさせて。御忌日となむ申しつる。いみじくこそあれ。いかがせさせたまはむ」とも、え言ひやらで立ちぬ。女君、聞くに胸つぶれて、さらにせむ方なし。さきざき思ひつること、物にもあらずおぼえて、わびしきに、避け隠るべき方はなし、いかでただ今死なむ、と思ひ入るに、胸痛ければ、おさへて、うつぶし臥して、泣くこといみじ。

典薬助と結婚させられそうになって再び死にたいと泣く姫君である。物語を読む人は、いずれこの状態が解消されるであろう事を知っているからともに絶望することはあまりないのかも知れないが、特に現代の我々は「共感力」とかいう阿呆みたいなものから、「感情移入」みたいなもっともらしいものまでを強制されている。確かに、絶望はいつもあり、適当に思い出す必要はある。ハリウッド映画で夢を見ている人々には、定期的に「マルホランド・ドライブ」のような作品を見るべきだ。ディビット・リンチはいつも、夢と現実の両方を区別なく抱え込まざるを得ない、現代の良心的で痴呆的な人間を表現しようとしていた。こういうのをヒューマニズムと呼ぶべきである。逆に、SFみたいなものに振れてしまっているものはアンチ・ニューマニズムである。

少し似ているがリンチ的なものと違うのが、夢を現実に持ち込む方向性を持つもので、特撮などがそうである。特撮ドラマは基本「ごっこ」の世界でこどもが遊び場で再現(したふりが)できることが重要である。というわけで、いま気付いたのだが、金八先生なんかも一種の特撮ではなかろうか。このドラマが撒き散らした再現幻想は、ウルトラマンのスペシウム光線やロケットパンチよりも強かった。

だから、我が国では、再現の欲望を絶ちきるほど現実とフィクションが似ていない、現実が秩序志向過ぎてひどすぎる事態――が傑作の条件であるとまずは考えられる。花田清輝ではないが、戦後よりも戦時中の文学にみるべきものがあるみたいな見方は、そういう意味でありうるのである。そして次に、平安朝とか大正時代に文学の質がある種急上昇したような現象のように、秩序からの逃避も秩序志向も同時に実現しようとしている場合である。現実に対する攻撃性がつよい場合と言ってもいいかもしれない。

もうみんながやってることだが、――精神医学の進捗と全体主義の相互依存的関係は、100年前の昔についてもいまについても考えておくべき問題である。たぶん、こういう時代は、極端なヒューマニズムの時代なのである。

例えば、学生指導で先生方を鬱にするのは、――どうみても卑怯な行為にしかみえないので指導したり不可にしようとしたら、配慮申請が届いたりして如何したらいいのか分からなくなるという体験である。しかしこれを理不尽だととらえるのは浅薄だと誰でも思うわけであり、そうするとこういう何が現実なのか分からないことが起こる「世界」が全体性として立ち上がってくるわけだ。しかし我々はこういう理不尽と思いたい「世界」に堪えられない。而してそれを「主義」として処理したがる。

これを芸術として全体性に近づけようという欲望は、ナチスがそれを「感情移入」の「いまここ」を全体性に錯覚させることで美的政治として考えたのとは別に、芸術家は恐らく人生によって成し遂げようとする。それが主義への激しい抵抗である。それはいつ頃から存在していたのかはわからんが、ベートーベンのコンサートなんか既にそうであった。

交響曲第5番ヘ長調『田園』(注:現在の第6番)
アリア "Ah, perfido"(作品65)
ミサ曲ハ長調(作品86)より、グロリア
ピアノ協奏曲第4番
(休憩)
交響曲第6番ハ短調(注:現在の第5番)
ミサ曲ハ長調より、サンクトゥスとベネディクトゥス
合唱幻想曲


――(Wikipedia)


これは、ベートーベンの交響曲第5番の初演プログラムである。四時間ぐらいかかったらしいが、全体としてソロと合唱付き交響曲みたいになっており、ワーグナーのオペラやマーラーの交響曲なんかはこのプラグラムを一曲で短くしたかんじなのであろう。マーラーの交響曲て、曲の最後が次の交響曲の冒頭の気分にどことなく繋がっている気がする。躁鬱の浪が曲をまたいで存在している。すなわち、これはワーグナーの楽劇よろしく、ずっとつづけて聴くべきものなのであろう。この体験においては、つまらない感情移入に没入している暇はない。これに比べると、ブルックナーの交響曲は、バッハの宗教曲みたいなもので、まったくの別物である。

そういえば、この前観た「ザ・リング リバース」の音楽が、「ただちにいま鼓動をはやくいたしましょう」みたいなこれ見よがしの音楽だったので、――音を消して、代わりに小室さんのズンドコズンドコズンドコズンドコの音楽を流したら、テンポ快調なコメディーにはやがわり。日本の貞子がコメディだとか言われるけど、――そもそも、よく研究者が指摘するように、こういうのはコメディと似ている分野なのだ。マルクスの科白を少しかえて、一度目はホラー、二度目はコメディというべきだ。そういえば、リアルでも、あなたは第二次大戦を楽しそうにはなすよね、とか言われたことあるのだが、つまりそういう事な訳だ。逆に、この話題を楽しそうに話さない奴の話って悲惨さがだいぶ軽いのだ。現実はもっととんでもないわけである。

その意味で言うと、落窪のお姫様の悲劇と復讐のドタバタはちょっとコントラストがそれほどでもない気がする。やはりこれは現実ではなく、神話とも言うべきものに近いのではなかろうか。


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