学問基礎科目「文学A」もそろそろ終了のお知らせが近い。今日は、共通科目FDの「公開授業」でもあったので、いつもにも増して放送コード無視。美事にビデオに撮られた。
見に来られたある先生がアンケートに書いてくれたことであるが、──やたらグループワーク導入だ学生とのコミュニケーションだ、とかいう風潮の中で、大量の印刷資料を使った一方的な講義形式でも、100人程度の学生に向けて十分面白く授業を展開できることを全力で証明しようとするのが、私が「公開授業」を引き受けた理由である。正直なところ、学生の質と状況によってはいつもやれる自信はないし、理想に過ぎないが──、90分喋り続けであっても学生の注意を引きつけておく能力がなければ大学の教員とは言えないと思うし、その資格はないように思う。これは喋りのテクニックとかの問題でもあるが、根本的には学問的な認識の問題である。小学校の授業とまったく同じように、予習で手抜きをすれば、わかりやすくしゃべることは出来ない。作品に対する厳密な認識は、素人にとって難しくなるどころかわかりやすくなるというのが、読解の基本的な姿勢であるべきだし、授業もまったく同じことである。(だからといって、学生がわかりやすいと感じた授業がよいということではない。すぐその見解に行きたがる方が多い訳だが。それに、素人といっても申し訳ないけれども「たちのよい」人間に限る。)
とはいえ、私は学生からのレスポンスを求めていない訳ではない。第一に、レポートを大量に課すことによって、私と学生は相互にコミュニケーションを図っている(笑)私が勉強した分だけ、学生にも勉強して貰う。これをコミュニケーションというのである。何にもしない学生がただ授業で発言するなど、コンビニでの「弁当あっためてください」発言と大して変わらん。第二に、演習の授業では学生の発言が授業の大半である(
1年生=共通科目・学問基礎科目……私のおしゃべりによる一方的な文学的洗脳。学生は、文学作品のパロディを何回か書かされることで文学者気取りになり、世間的幸福より文学の方がよいという確信をもつことができる。無理だなあ……
2年生=文学史……読んでない奴はもぐりと見なされる作品の読書とレポートを宿題に出され、更に洗脳が強化されるてしまう。学生は自分がいっぱしの読書家と錯覚し始める。学生の研究室は、低レベルながら文学サロンに。苦しいなあ……
3年生=演習……精読と注釈の訓練。学生は自分が馬鹿だと、いや作品を見つめる静かな心持ちに気づく。
4年生1=文学講義……学生のレベルを完全無視した私の一方的なおしゃべり。前日研究したことを私が無秩序にしゃべる。学生はそれを理解したかのような顔をして頷くことができる。楽しさは最後に来るという……
4年生2=卒業論文……学生はたいそうなご託をならべることができる。これは非常に大事なことである。大学生は基本、思い上がっていなくてはならない。
社会人……我々は、世間から孤立し、文学を死守する。