土曜日は、会員でもないし哲学徒でもないがショーペンハウエルアー協会の第25回全国大会を見学に行って来たのである。会場は気が付いたら昨年のハイデガーの時と一緒の大学だった。
大学院の頃、「明治二〇年代の「ショーペンハウエル」」という論文を書いたことがあるのが思い出である。そんで、学会時評みたいな欄で初めて私がとりあげられたのもこの論文であった。わしゃ花×清×などの昭和の文芸批評の研究者のはずであったが、実際のところ、自分の思い入れのある対象に対してはあまり研究は進まなかったりするものである。気が付いたら断続的に四年も「ショーペンハウエル」を調べていた。案の定というか、私は「意志と表象としての世界」より「パレルガ」の方を好んでいた。「表象」の意味が最後まで分からなかったからである。姉崎訳の「現識」の方が分かるわっと当時思ったはずだが、いまはその理由も忘れた……
今日の大会でも、9.11や3.11に対してショーペンハウアーの思索から引き出せるものはあるか、というテーマが論じられていたが、わたしもそのころなんとなくオウム事件以降の世界のことを考え論文でも自分の感じ方を示唆したつもり……であった。が、リスボン地震後の哲学者たちのように、世界を考え直そうという今日の哲学畑の皆さんの苦悩は、どうも文学畑のわたくしの思い及ぶところではない。わたくしの思考経路は、つい、例えば、こうなっってしまう。スピノザが「衝撃によって飛ぶ石が、意識を持っていれば自分の意志で飛んでいると思うだろう」と皮肉を言うのに対して「石は正しいね」と言い放つショーペンハウアー──、それは「気のいい火山弾」とか戦後派の文学者の作品のいくつかを想起させるし、果ては目鼻口を持った石がニヤニヤしながら果てしなく宇宙を飛んでゆく映像まで浮かぶ。かかるくだらない不埒な想像が無邪気なものとして済まされないのは、それが発電所の建家やセシウムを擬人化したりして思考停止する現象とつながっているからである。わたくしにとって、やはりスピノザとショーペンハウアーの間にとどまることも必要なのだった。たぶん、哲学に原子力政策をどうにかする力はないかもしれない。しかし、一端哲学によって自分の思考の枠組みの根本的な誤りに気付いた者は、一生の後悔どころではなく、自分を含めた「人間の後悔」まで行うに至るであろう。それが地獄というなら、哲学は認識の罪を犯した人間を地獄に落とすことができる。今のご時世では、かかる哲学の性格がほとんど危険思想扱いなのは周知の事実だ。哲学がある種「役立つ」学問であることは、哲学を大学から追い出そうとしている連中が最もよく分かっているところだ。
まあ、とりあえず、今考えてることに「役立ち」そうなヒントをいくつか発表の中から見出すことができた。すくなくとも、私が昔なぜショーペンハウアーにこだわったのかその理由を思い出しただけでも収穫だった。あちこち彷徨しているうちに研究の動機や問題自体を失念することは、かなりあることなのである。
大学院の頃、「明治二〇年代の「ショーペンハウエル」」という論文を書いたことがあるのが思い出である。そんで、学会時評みたいな欄で初めて私がとりあげられたのもこの論文であった。わしゃ花×清×などの昭和の文芸批評の研究者のはずであったが、実際のところ、自分の思い入れのある対象に対してはあまり研究は進まなかったりするものである。気が付いたら断続的に四年も「ショーペンハウエル」を調べていた。案の定というか、私は「意志と表象としての世界」より「パレルガ」の方を好んでいた。「表象」の意味が最後まで分からなかったからである。姉崎訳の「現識」の方が分かるわっと当時思ったはずだが、いまはその理由も忘れた……
今日の大会でも、9.11や3.11に対してショーペンハウアーの思索から引き出せるものはあるか、というテーマが論じられていたが、わたしもそのころなんとなくオウム事件以降の世界のことを考え論文でも自分の感じ方を示唆したつもり……であった。が、リスボン地震後の哲学者たちのように、世界を考え直そうという今日の哲学畑の皆さんの苦悩は、どうも文学畑のわたくしの思い及ぶところではない。わたくしの思考経路は、つい、例えば、こうなっってしまう。スピノザが「衝撃によって飛ぶ石が、意識を持っていれば自分の意志で飛んでいると思うだろう」と皮肉を言うのに対して「石は正しいね」と言い放つショーペンハウアー──、それは「気のいい火山弾」とか戦後派の文学者の作品のいくつかを想起させるし、果ては目鼻口を持った石がニヤニヤしながら果てしなく宇宙を飛んでゆく映像まで浮かぶ。かかるくだらない不埒な想像が無邪気なものとして済まされないのは、それが発電所の建家やセシウムを擬人化したりして思考停止する現象とつながっているからである。わたくしにとって、やはりスピノザとショーペンハウアーの間にとどまることも必要なのだった。たぶん、哲学に原子力政策をどうにかする力はないかもしれない。しかし、一端哲学によって自分の思考の枠組みの根本的な誤りに気付いた者は、一生の後悔どころではなく、自分を含めた「人間の後悔」まで行うに至るであろう。それが地獄というなら、哲学は認識の罪を犯した人間を地獄に落とすことができる。今のご時世では、かかる哲学の性格がほとんど危険思想扱いなのは周知の事実だ。哲学がある種「役立つ」学問であることは、哲学を大学から追い出そうとしている連中が最もよく分かっているところだ。
まあ、とりあえず、今考えてることに「役立ち」そうなヒントをいくつか発表の中から見出すことができた。すくなくとも、私が昔なぜショーペンハウアーにこだわったのかその理由を思い出しただけでも収穫だった。あちこち彷徨しているうちに研究の動機や問題自体を失念することは、かなりあることなのである。