★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

故ウリ様と自民党

2012-12-17 23:30:47 | 文学


故ウリ様

自民党大勝……といっても、いろいろな人が言っているように、べつに大勝していなくても大勝してしまうのがいまの小選挙区制度である。というより、今のご時世、何かが起こっていなくても何かが起こっているように喧伝され、起こっていることに対しては全く認識力が働かない人間が威張りまくるという、完全に頭がおかしい状態になっている。先日の学会でもロビーや居酒屋で話題になるのはそんなことのあれやこれやの裏話ばかり。確かにどこの現場でも威張ってはいけない人間がなぜか威張っており、彼らの発言を心の中で拒否しているうちに疲弊のあまりやるべき仕事ができないのである。……恐ろしいのは、このような事態が、実際の制度によってつくられていることであって、自民大勝民主大勝自民大勝という一見弁証法的な運動が仮象であることに気づかない人間と、ある特定の人間だけが、得をするようになっているという事情である。

しかし、我々は自分自身により注意深くあらねばならない。わたしが気になるのは、上のような絶望に対する反射作用なのか、もともとそういう種類の実力なのかしらないが、文学作品に対してもそれをやたら政治的な構図に抽象したりする会話や発表が多いということである。それが反体制的(!)であっても、言葉の言い換えの乱暴さの度合いにおいてどこぞの官僚や政治家と変わらなければ、言葉は生き残らないのではなかろうか。戦時下の何とか協同体論とかなんとか論はそういう運命をたどったし、後から読んでみると、敵の懐に入っての抵抗どころの話ではなく、完全に敵の言葉をなぞっているだけの場合が多いのである。要するに、メディアの言葉レベルで文化をさばく癖をつけてるやつこそがファシストなのであり、だれでもそうなる可能性がある。メディア論的思考自体が、いかにリテラシーを強調しようともファシズム的であるというのが私の実感である。端的にいえば、文学に淫しなければ政治の言葉すら生まれないのが我々の現実ではなかろうか。文学に淫することが、作家論の時代も作品論の時代も、実際は、作品がどのように捉えられているかという評判に右往左往することと関係があった以上、混乱するのは無理もない。もともと作品から離れているのに更に離れようとするのであるから……