★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

勝手に逃げろ/蓮×重彦

2012-12-27 22:54:48 | 映画
いやなのは、ゴダールの名が蓮×重彦の名とともにわたくしに記憶されていることである。「勝手に逃げろ/人生」を見直すと、「ゴダールは馬も撮れるという思いもかけぬ事態に不意撃ちされ」などというせりふが去来し、「不意撃ちされねえよ」と思ってもみないではないのだが、「露呈された女陰とのコミュニケーションを得意げに達成しているらしい何頭もの乳牛」などというせりふまでもが陸続として不意打ちしてくるので、そもそもナタリー・バイが湖畔を自転車で疾走する場面を「ぎくしゃくした」と形容する蓮×が果たして自転車に乗ったことがあるのであろうか(自転車の運転はストップモーションがそもそも度々あるではないかっ)という疑問を投げるまでもなく、蓮×氏の馬のような風貌を思い浮かべ、想起される文が「「馬など、どこにもいはしない」とゴダールはつぶやく」という蓮×氏の文章の一部であったことに想到し、わたくしの90年代の勉強の偏りを嘆く始末である。

ストップモーションの多用が印象的な映画である。特撮ファンなら「ウルトラマン」のストップモーションを思い出すであろう。「ウルトラマン」は、毎回のワンパターン・反復による時間の停滞をウルトラマンの死でしか断ち切ることができない。ゴダールの「勝手に逃げろ/人生」も、浮気男の事故死によって、勝手に逃げることができる人生の隙間が辛うじて開いたような感じがする。しかしそんなことを信じる観客がいるであろうか。確かなのは、「サウンドオブミュージック」の草原で、実際のオーケストラがくさむらから出現する類の冗談──いやとても感動的なので冗談とは思えない──場面──浮気男の娘が、死んだ夫を「関わり合うな」と言ってその場から立ち去ろうとする母親に反目する予感を漂わせながら歩く姿を彩るオーケストラ音楽は、娘の前方で実際に演奏されていて、その傍らを彼女は孤独に歩む如く見える──その場面が自転車や馬との運動の対比において……

蓮×的なイロニーは映画とは対極である。90年代、わたくしもそんな感慨から出発したつもりだった。