「衝動殺人、息子よ」は、ある衝動殺人の被害者遺族が、国からの補償を求める法律を作ろうと、同じ被害者を全国に訪ね歩く話である。木下恵介の映画にたびたび見られる、主人公の行脚というか遍路というか、人生がその移動に賭けられるところのもの、しかし同時に地方の風景の美をも描き出すその時間的な流れが、徐々に観客に主人公の人生を肯定させてゆく。いまやこの映画の視点が中途半端に思えるのも確かである。無差別殺人を生み出す原因や加害者側の視点の問題とか、被害者の視点の多様性とか、「論」じようと思えばいろいろ付け加える余地があるところであろう。しかし、この映画は、庶民が自分に降りかかる災難の原因を探していろいろ歩き回ったあげく最後に、法律を作る「怪物の懐」(国家の中枢)に飛び込むに至る、という的がはっきりした物語なのである。それが前述のロードムービー的な仕組みに重ねられて盛り上がってゆく仕組みである。これが、いまありがちな、被害者に勝手に感情移入して手を直接下したがるえせ民主的感覚を厳しく退けているのは看過できない。映画中の被害者の家族は、裁判前に加害者に直接手を下そうとするところを止められて以来、はっきりそこらは自覚しており、だからこそ「社会」(メディアや法律)を動かさねばならないと決意しているのに違いない。それは、復讐へのあきらめではなく、復讐のより近代社会的な厳密化なのである。この映画を、加害者への擁護から、被害者への補償への視点の変化と受け取ってはならない。国家が、国民を保護する契約などはじめから結んだ試しはないわな。おとなしくしている人を保護しないだけのことだ。
結論:高峰秀子様最高