★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

蛙は寧ろラードのようなものでからりと揚げた方が

2014-02-18 23:19:16 | 文学
 池中の蛙が驚いてわめいてる中に、蛇は蛙を啣へた儘、芦の中へかくれてしまつた。後の騒ぎは、恐らくこの池の開闢以来未嘗なかつた事であらう。自分にはその中で、年の若い蛙が、泣き声を出しながら、かう云つてゐるのが聞えた。
「水も艸木も、虫も土も、空も太陽も、みんな我々蛙の為にある。では、蛇はどうしたのだ。蛇も我々の為にあるのか。」
「さうだ。蛇も我々蛙の為にある。蛇が食はなかつたら、蛙はふえるのに相違ない。ふえれば、池が、――世界が必狭くなる。だから、蛇が我々蛙を食ひに来るのである。食はれた蛙は、多数の幸福の為に捧げられた犠牲だと思ふがいい。さうだ。蛇も我々蛙の為にある。世界にありとあらゆる物は、悉蛙の為にあるのだ。神の御名は讃む可きかな。」
 これが、自分の聞いた、年よりらしい蛙の答である。

――芥川龍之介「蛙」



養殖家の話では巴里で一年に食べられる蝸牛の数は約七千万匹で、それを積み重ねると巴里の凱旋門よりも高くなるというから大したものである。
 蛙を食べ始めたのもフランス人だと聞いた。食用蛙は近来日本でも養殖されるが、本場のフランスに於てさえまだなかなか普遍的な食物とはなっていないようだ。その点から云えば蛙より蝸牛の方が遥かに優っている。蛙料理は上等のバタでフライにしてトマトケチャップをかけて食べる。上等のバタを使うので、出来上りがねっとりしていて些か無気味に感ぜられる。蛙は寧ろラードのようなものでからりと揚げた方があっさりしていてよくはないだろうか。
 蛙や蝸牛などのグロテスクなものを薄気味悪い思いをしてまで食べなくとも、巴里には甘い料理がいくらもある。

――岡本かの子「異国食餌抄」