★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

逆境ナイン

2014-02-05 23:02:50 | 映画


お仕事終わった後、「逆境ナイン」というのを観た。わたくし、「エピソード3」とか「宇宙戦争」とか愚にもつかぬ病んでいる映画の代わりに、この映画を観るべきであった2005年……。わたくし自身の逆境があまりにあれだったので、逆境という題名にすでに耐えられたかどうかわからんが……。

すばらしい映画だった。

で、細君と飯を食いおわってテレビをつけたところ、「イナズマイレブン」とかいう、昔のゼミ生がたしか好きだったアニメが放映されており、どういう話なのかは知らんが……、鬼が島的なところで鬼たちとサッカーしているらしく、それが世界を救うだの救わんだの、鬼の女の子が民を救うだの女王様になるだのならんだのと……、五頭身ぐらいの変なヘアスタイルのガキどもがアニメ声(当たり前か)でしゃべっていたのでテレビを消した。どこから突っ込んでいいのかわからない設定であるにもかかわらず、なぜか突っ込んではいけないような気がしたのである。最近の時勢の特徴であろう。突っ込まれた相手が、しゃれたことを言わずにまじめに激怒したりするからである。最近、学会でもそういうのがいるが……、相手からの批判を「突っ込み」と言い換えてやり過ごし、突っ込みを「批判」として過剰反応するのは、どうみても処世術なのである。まあそうやって院生時代、競争相手を蹴散らしてきたりしてきているので、癖になっているわけだ。学問は学問のためではなく、社会のためとか言うのであれば、まずそういう癖をつけさせないように指導教官ががんばる必要がある……、もう手遅れかもしれない。

「逆境ナイン」では、岡村孝子の「夢をあきらめないで」がエンディングテーマだったが、なるほど、ああいう歌は、112対0を九回裏に一人のバッターが逆転するようなあり得ないギャグの後に聴くから心に響くのである。まじめに夢をあきらめないでとか言ってどうするのだ。何かに夢中になれない人間ほど、夢とかなんとか言いたがる。どうも学校の教員とか政治家とかは、なかなか物事に集中しきれないタイプが多いような気がする。そういう人たちが、最近の若者は、自尊感情がないとか言いつのる。言われた子どもがしらけるわけだ……。そもそも自尊感情というのは、意識的になんとかなるもんでもないんじゃないかな。教師が愛国心とかを教えようとしても無駄であるのと同じである。

〈自尊感情〉があるタイプっていやですよ。出世はできるかもしれないが、例の国営放送のドンみたく、知性がなさそうなので批判されているということがついにわからないタイプがそれですよ。議論や業績や人間性(笑)で勝ち上がっても、しょうもない人はついにしょうもないのである。「個人的見解は全部取り消させていただいた」とか言っていたが、公的見解なんだったら逆に「ああ我慢して言ってる可能性があるんだなあ」と思えるが、個人的見解だとしたら「うわっこいつの本心はこれかー」だから、よけいだめなのではなかろうか。まあ、あの態度は、公的立場(権力)を有効に働かすために私的感情をぶっちゃける、よくあるお偉方の脅しのあれである。つまり、公的立場において私的感情(英霊の意志の場合もあるね)がまじる恐ろしい人ですよと周りにアピールするあれである。ある種の業績が問題になる組織ではあれでだいたいのところ勝ち上がれることは確かである。

と思っていたら、国営放送の経営委員が以前、新右翼の拳銃自殺を礼賛していたという話が、ネットのニュースにでていた。その人が「個人的な活動なので」とか言い訳したと伝えられていたが、また個人的か……。だいたい、文章を発表すること自体が公的なものであって、彼女のバベルの塔に関する著作も個人的なものなので批判できないとでもいうのであろうか。彼女がそうだとは思えないが、自分の(私的な)感情と学問がつながりをもっていない学者というものはいるもので、そのつながりのなさが非常にストレスなので、いつも隠れてロマンティックに悪いことを考えてしまうのである。人文科学をやるものとして、そういう学者は最低である(個人の見解です)。だいたい、命を賭けるものを礼賛する学者や批評家や教師は右左真ん中その他諸々を含めて信用できない。自分じゃ絶対にそうしないからだ。そりゃそうである。彼らはもはや幽霊、よくいって理念的ななにものかであり、命を賭けられる側にいるからだ。

とか考えていたら、例の被爆二世の作曲家にゴーストライターがいたとかいうニュースを知った。まあ、わたくしはあまりこういうニュースには驚かない。ゴーストなんぞ、本の世界ではかなりいることだしね……。というわけで、アイドルや政治家の本のゴーストライターの皆さん、みんなで謝るなら怖くないですよ、手を上げて出てきなさい。というか、知事とか市長か学長の挨拶文も下僕が書いてますよね、はい、出てきなさい。はい、そこの君イ、彼女にレポート書いてもらってんじゃないよ。先生、Purfumeがまた口パクやってます~

そういえば、村上春樹のある小説の中で、「たぶん××町ではみんなが普通にやっていることなのだろう」とかなんとか書いてあるらしいんだが、うちの町はそんなんじゃないですとか抗議しようとしている議員さんがいるらしい。だいたい、村上春樹の小説の主人公に、厳密な事実性を求めてどうするのだ。村上春樹はたぶん厳密性を求める作家であるが、彼の心にはゴーストがいる。非常に軟派な自尊感情の低いゴーストが。彼がいつも事実を曖昧にした方が事実に近くなるというような哲学を心の中でつぶやき続けている。結果、村上の小説は、多くの厳密性を犠牲にしながら射貫くところだけを狙っている。狙ってどうなってるかはよくわからんが……。事実を知りたい読者は、司馬×××とかをお読みになればよいのではないか。事実っぽいことが書いてあるから。

世の中、ゴーストが多い。自信ありげなゴーストと自信なさげなゴーストが、その差異があるとかないとかで大論争……これが戦後の言論を彩っていたはずなのに、今や問題なのは、うまくゴーストを本当っぽく操るためにある種の暴力をいかに使うかになってしまった。なにしろ、自分たちは本当の自分とかアイデンティティとか事実性とか自尊感情の問題と思っているからやっかいである。そんな日本人には「The Canterville Ghost」をお薦めしたい。しかし、結末にあんな幸福がまっていたのは、作品のすばらしさであって、作者の自己愛のおかげではない。

'Papa,' said Virginia quietly, 'I have been with the Ghost. He is dead, and you must come and see him. He had been very wicked, but he was really sorry for all that he had done, and he gave me this box of beautiful jewels before he died.'