★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

わたしの肺臓の中へ、バイキンが百萬ほど突貫したわ

2014-02-27 05:46:32 | 文学
『…ハツクショーン!ほーら、ハツクションをするぢやないの。わたしの肺臓の中へ、バイキンが百萬ほど突貫したわ。』
『ホツホヽヽヽヽヽ。佐古さん。あなたの口から百萬のバイキンが飛び出したのぢやない?』
『あらひどいわ。そんなことないわ。――ハックション!』

――横山美智子「嵐の小夜曲(セレナーデ)」


大事なときに必ず失言する元首相も、せめて上の如きセンスをつけて頂きたい。「バイキン」が問題なのではない。「百萬ほど突貫」があるから、上のコミュニケーションは成立しているのである。「バイキン」には意見があるが、「百萬ほど突貫」には心象に即した解釈がある。そして、解釈は、自らをいくらか傷つける。

思うに、内輪のパーティで大事なときに必ず不謹慎なことを言って頭の悪い連中の笑いをとりかわいがられてきている者は、大事なときにこそ失言をする癖が出来ちゃっているのである。飲み屋レベルのことを公で言うなよ、と思うのは、ふつーの人の感覚であって、奴らは、公だから不謹慎なことを言ってしまう能力が求められているのである。……それにしても、こんなことは世間の常識であり、NKの辞表預かりおじさんにせよ、毎回の今回の森元さんにせよ、上司にとっては使いやすい可愛いやざ顔の人たちが、民間や何やらで、権力を握ったとたんうれしさのあまり、むちゃくちゃにいろいろやらかしてしまっているのは、よく知られた事実である。周りを見回してみりゃすぐ分かることである。確かに、頭に問題あるのであろうし、調子に乗って威張ってしまう欠点はあっても、下っ端としては、普段からよく気がつく、惨めな人間の気持ちが分かるこつこつ仕事をするいいやつかも知れない。新疆も、そんなかんじではなかろうか。一緒に飲んでカラオケなどすりゃ結構楽しそうな人物である気がする。ただ、彼らを理念や政治に絡んだ場所に置いてはならない。彼らは、全能感におぼれてもいい公園の砂の小山レベルの場所、せいぜい越後屋のレベルで威張っているべきであり(といっても、そんな威張り方が可能なのは彼らが生きているのが近代以前の野蛮状態であるからというコモンセンスがあったので、彼らは暴れん坊や暗殺部隊に成敗されるのであるが……)、どうせ総理大臣と社長の区別なんかついてやしないのである。ボスになったら寧ろ憲法に拘束されるとか意味わかんねえと思っているのが、われわれの社会で出世するタイプなのである。

でも、よかったではないか。日本の支配階層にどんな人間がおり、憲法がそういう人間のためにこそ存在するということが、日本人に学習されたという意味では……

……と宮台司なら絶望的な調子で言うところであろう。

しかし、宮氏が、啓蒙される側に必要なまともな読解力が欠落しつつあることに、本当に気付いているのか不明である。以前に、文学作品なんて誰でも教えられるとか言っていたからな……

わたくしは、宮台的な啓蒙活動が効力を発揮するためにも、日本人の読解力を妨害している、所謂言葉のポエム化をなんとかしなければと思っている……。日本人の国語の能力をまともな状態にするためには、残念ながら、社会にまともな倫理的感覚が保持されている必要がある。読解力を支えるのは個人の責任で他に即するという非常に困難な倫理である。NHKの文学番組でも、真央氏のインタビューの紹介でも、たぶん悪意によるものではない単なる誤読が垂れ流されている。その点、新疆や森元の発言も全く同じように、憲法や何やらに対する単なる誤読であり、彼らには悪意がないから反省もしない。国語の読解問題ができなかったからといって罪悪感を憶えない者が多いのと一緒である。テストの採点をやっていると、書いてないことを勝手に読むたちの悪いものが増加中であるのに恐怖を覚える。古典漢文が出来なくなっているのは、それらが現代にそぐわなくなっているからではない。極力本文に即する(尊重するのではない)という倫理を国語教育が放棄したからである。現代文も順調に出来なくなってますからな……。(馬鹿な意見)相手の意見を尊重して話し合いさせたり、感想を発表させたり、そんなもん、本文に即する努力がなけりゃポエム化した解釈が勝つに決まっている。ポエムはどんなに自己愛的であっても仲間の言の模倣だからである。内田樹説ではないが、辺境人の我々は、強大な何かを模倣しながら物事についてあーだこーだと不安がることでアイデンティティを形作っており、もっとも恐れているのは、自分で勝手に正解を作り出すことである。それには他人の模倣ではなく、本文に即して自分の……

……と書いてきて思ったが、要するに、われわれの錯乱は、模倣した相手が増えすぎて訳わからなくなったことの反映かもしれない。よく言われるけれども、最近日本人は夜郎自大なところが中国人に似てきているという。しかしそれを言うなら、複雑感情のあり方が北朝鮮にも韓国にも似ていると思う。そういえば、辺境文化的なところはドイツ人にもフランス人にも似ておるぞ、プライドが高くて意地悪なユーモアを好むところは島国のイギリス人やアメリカ人にも似ているらしいぞ。万葉集にも源氏物語にも吾輩は猫であるにも似ておるぞ。あまりにいろいろ模倣しつくしたので、他に即するのは疲れたよ、というわけでもう日本人の得意技を純化して行くしかないのだ。いろいろあるけど「中」とってかわいく馬鹿なふりである。ポエムになるわけだ。確かに、私のなかにもそういうところがある。もっとも、馬鹿なふりというのは、馬鹿の模倣でもあり、本物になってしまうのは上の論理からして必然的であるから気をつけなければならない。