★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

分かりやすい比喩に手を出すな

2015-07-21 02:08:46 | ニュース


われらが首相がテレビに出て「分かりやすい説明」で安保法制についての国民の「理解」を促していたということであるが、案の定、様々な方面から批判にさらされている。政権だから、なんらかの苦しい説明はつきものであり、我々だってそうなのであるが、人文学で大学一年生ぐらいに厳しくしつけられることを気をつけたいものである。

1、「分かりやすい喩え」というのは、大概違ったことを言ってしまうので、真剣な話題には非常に危険である。言葉が違えば、言っていることが違うと見做すべきなのだ。

2、オーバーな手振りは頭の悪い証拠であると見做される。

3、「まさに」「実は」を極力使ってはならない。ナルシスティックな説明だと見做される。

4、文字で言えることに対して絵を使うのは、比喩よりももっと危険であり、違ったことを言ってしまう可能性が大である。だいたい、説明する相手を舐めた行為である。

5、そもそも「わかりやすさ」より「正確さ」が問題である。正確でないことは絶対に分かりやすくはならないのである。

6、相手から「分からない」と言われたら、「お前の言っていることは間違っている」という意味だと見做さなければならない場合が多い。

7、やたら横文字を交えた議論が、正確であった試しはない。

8、嘘をつくんじゃねえよ。


……書いてて、耳が痛くなってきたが、とにかく我々の共同体がとち狂っているのは、上のようなコモンセンスがあちこちで崩壊しつづけているからである。しかし、これらは、教員や学者がしつこく言い続けなければ容易に崩壊するものであろう。というより、上のようなコモンセンスがないとまともな社会は成立しないのではなかろうか。

……以上は、人文学をやるものとして一般論を述べたまでである。いまの安保法制の議論で、火事とか防犯の比喩を出してくる人たちがいるが、それは単にやつらが比喩も使えないバカなのではないことを示している。彼らは、安保は「安全」保障だといっているのである。津波火事地震台風対策がいま大変に盛んであるが、これに乗じて、というかこれらの対策があまりに大げさなのは、大震災のせいではないのは明らかであって、すなわち、やつらは自然災害と対外戦争を意図的にひとくくりにするつもりなのだ。もっとも、こういうやり方は、近代日本の「戦争対策」の常套なのである。何かあるとすべてをわれわれの「安全
」を脅かし「波風を立てる」ものとして扱うことで、非国民も津波も同じく不快なものになる。しかしさすがにそんな感覚は長く続かんから、かかる動物レベルの感覚を維持するために、馬鹿みたいな死者崇拝を行ってあまりものをいえない儀式的な雰囲気を醸成した上で、堅気ヤクザみたいな人物が脅迫要員として動員され――各共同体のボスがいつの間にかそういうやつらに入れ替わってしまうのだ。かくして、非国民狩りと敵国に対する憎悪を自ら強迫的にあおり立てるだけの集団ができあがる。戦争は、戦いについての科学と戦略的で姑息な計画性によってなされるはずが、それよりも仲間はずれと敵国を馬鹿にすること自体が自己目的化する。これは、かなり精神的に無理してるから、勝負がついたら比較的速やかに「すべてなかったことになる」し、実際にあまり具体的なことを覚えていない。いじめの常習犯が案外自分が行ったいじめを記憶していないのと同じである。
 しかし、地震津波対策と防空演習と人間のトラブル、これらの区別がつかない頭で戦争やってもどうせまた負ける。津波や地震は日本人を恨まないけど、人は日本人を恨み分析し価値判断する。それはある程度粗雑なものが含まれるに決まっているし、判断された方も惨めったらしくなってしまう。戦後日本人が味わってきたことである。そんな感じで、不幸にもできあがってしまった頭のいじけた日本人から回復したいのであれば、せめて、外交と文化的発展について行けるように、正々堂々、英語だけでなく様々な外国語の訓練を大学でみっちりとやり、世界の人文学と理学をしっかり勉強することが必要なのは自明ではないか。攻めてくるのは水や地面――、本当は、兵隊ですらない。こちらの行動規範や人間性を変えてしまうであろう文物、いってみれば人間よりも強烈な「人間」である。そういう「人間」たち――プラトンとかマルクスとかカントとかドストエフスキーとか聖書とかコーランとかブッダとか……など――を、その本文に即して議論したことのない人間は、まだ「まともな人間」とはいえない。極論をいえば、歴史的に、日本人はテクノロジーを模倣できたのかもしれないが、文物にはずっと対抗できないで今日に至っており、日本の地位がいまいちなのはそういう文物=「人間」がいないからである。大和魂とか美しい日本なんか、この「人間」に比べりゃ本の装丁みたいなものである。なのに、実践を大事にせよ、社会的ニーズを考えよ、じゃあ文系はいりませんなあ、とか、どこからつっこんでいいのか分からないほど、頭とタチが悪すぎる。内向きというより野蛮である。彼らは、仲間の異分子を抹殺することと、外側の敵を抹殺しようとすることの区別もつかない、ナショナリスト以前のチンピラである。彼らが陸続として現れるのはしょうがないとしても、彼らが国民すら敬わないのは、現在の日本の文物の弱さと関係がある。これは冗談ではなく、日本が太平洋戦争に曲がりなりにも大学生を動員できたのは、京都学派と日本浪曼派とレーニンの翻訳のおかげのような気がする。決して葉隠のおかげではない。まだ守るものが存在していたのである。

しかしながら、いまや、守る価値がある祖国なのかどうかあやしいからといって、チンピラに戻ることはない。勉強する気がある者なら、もはや我々は先人の贈り物をまともに受け取るだけでも大変なことであると分かるはずである。それは、国の中からも外からも、どこからでも送られているのであって、それを好悪で拒否できると思いたいなら、もう我々はすでに死んでいる。