★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

リベラル・デモクラシーの夢

2015-07-08 23:09:51 | 大学


今日は、学内で安保法制をめぐる集会があったので顔を出してみたが、なかなか面白かった。憲法学者にしてもわれわれ文学者にしても、問題だと思っているのは、我々の「自由」を目指さない風土というか何ものか、なのである。自分と他人の「自由」の追求がないために、なにをやっても……全体主義ということになる。ただ、それは政治条件によってそうなっていることも確かであろう。我々はやっぱりアメリカと関係上、安保や沖縄の基地など矛盾する複雑な状況から、自由や平和のプランを練り上げるのが苦手である――それはそうだ、半独立の敗戦国であるからなあ。この軛を無視する議論は整合性がとれているように見えても無意味であろう。我々はアメリカによって自由を得たのだが、アメリカによって主権を失っている。だから、基地負担をなんとも思わないくせに、憲法は自分たちで作ろうと自立したがってみせたり……、よくわからんが、奴隷のあがきみたいなものが我々の行動を規定している。しかし、幸福にも憲法は高度な課題を我々に与えている。それを諦めない方がよいのである。従属国であった経験が却って、崇高な理想を追求し続けた名誉を与える日が必ず来る……

……人類が火星に移住する日と競争である。

「ゆかしさ」の限界点

2015-07-08 22:34:36 | 文学


その春、世の中いみじう騒がしうて、松里の渡りの月影あはれに見し乳母も、三月朔日に亡くなりぬ。せむかたなく思ひ嘆くに、物語のゆかしさもおぼえずなりぬ。いみじく泣き暮らして見出だしたれば、夕日のいと華やかに差したるに、桜の花残りなく散り乱る。
 散る花もまた来む春は見もやせむやがて別れし人ぞ悲しき


先にお見舞いに行った乳母が伝染病で死んでしまった。更級日記は前半にして、いろいろな人々がいなくなって行く話である。テレビドラマだったら、一見主役級が、第3話ぐらいまでにみんな死んでしまうようなものである。歌をみると、案外、こういう歌しかよめないので、日記の内容もこうなってしまうのではないかと疑われる。源氏物語がすごいのは、ぱっといなくなってしまうのはお母さんだけで、他の人達は簡単に死なないことである。勢い、歌は感慨としての歌にとどまっていられない。歌集があったから、歌はある種の心の象徴として愛でられるということがあるが、実際は処世がかかった文書みたいなものであったにちがいないのだ。物語はもちろん、そのなかの歌は本当の悲しみの中ではコミュニケーションの夾雑物が入っている気がする。孝標の娘も、「物語のゆかしさもおぼえずなりぬ」と言うのである。

「……世の中かきくらして晴るる心地なく侍り。……さても三人一つ島に流されけるに、……などや御身一人残り止まり給うらんと、……都には草のゆかりも枯れはてて、……当時は奈良の伯母御前の御許に侍り。……おろそかなるべき事にはあらねど、かすかなる住居推し量り給え。……さてもこの三とせまで、いかに御心強く、有とも無とも承わらざるらん。……とくとく御上り候え。恋しとも恋し。ゆかしともゆかし。……あなかしこ、あなかしこ。……」
 俊寛様は御文を御置きになると、じっと腕組みをなすったまま、大きい息をおつきになりました。


――芥川龍之介「俊寛」


おなじ「ゆかし」(見たい)といっても大きく違う。今日、宮谷一彦の『とうきょう屠民エレジー』をひさしぶりに読んだが、これはまた別の次元を見ようとして道草をし、道草を続ける作品であった。本当の主体は、そこに描かれた電車とかで……人間の歩みが機械化されたなにものかなっており、それ以外が見失われそうだったのである。それで、精神のみの道草を試みるのである。