丸亀町Gりーんの近くの神社といえば、この前のスケている碑がある神社とここです。仕事が終わってから、同じく仕事を終えたサラリーマンや官庁の人たちがプレミアムフライデー(今日はまだかな)だか何だか知りませんが彷徨いながら家に向かう中、わたくしは神社に向かうのであった。
ビルにひっつくようにしてありました。
戸隠神社といえば、当然、わが長野県のあれな訳である。
なぜ、戸隠というかというと、一説には、スサノオがあまりに不良すぎて怒ったアマテラスが天の岩戸に隠れてしまった時、ストリッパーがお隠れになっているものをさらけ出し踊りまくり、なんだろうか、とアマテラスがちょこっと出て来ようとしたところを見計らって、その岩戸をむんずと掴んで放り投げてしまったのが、アメノタヂカラオであり――。その岩戸が放り投げられたあと、なんと長野県のいまの戸隠あたりに落下したのだというのだ。そこから、戸隠となったという。しかし、その「隠」というのが分からない。だから、もうひとつの説の方がなんとなく分かる。すなわち、鎌倉時代の文献に「「学門」という名の修行者の法華経の功徳によって、九つの頭と龍の尾を持つ鬼がこの地で岩戸に閉じこめられ、善神に転じて水神として人々を助けたという言い伝えが残されている(調伏善龍化伝承)」(Wikipedia)のである。学門は八〇〇年代の人らしいのだが、所謂、「九頭龍伝説」である。実際、戸隠神社には五つの社がある(江戸期以前にもうそうだったらしい)が、上の九頭龍社というのが岩戸伝説と関係ある四つとは全く異なっていて、しかも一番古そうだということである。戸隠は、平安初期にはもう密教と習合した修験道場として有名だったわけで、まあよく分からん。古そうなものが、古いとは限らない。それは地神にもアマテラス関係にも当てはまる。
気になるのは、高松の戸隠神社の由縁であるが……
http://marugamemachi.jp/jinja.html によると、
讃岐高松藩主松平頼重公が、高松城に入封した寛永十九年五月十九日(三百三十二年前)から、讃岐松平家が信州の戸隠神社の御分室を勧説して、讃岐国の武運と領内の平安を祈るため、玉藻城内桜の馬場に祭祀されたのがその縁起であり、まことに由緒深い神社である。祭神は手力男命(たぢからおのみこと)で武勇の神さまである。
だそうだ。武の神様として持ってきたみたいな書きぶりであるが、『神社誌』には、
「天正年間には玉藻城内桜馬場付近にありて九頭龍権現と称せられし」とかいてある。つまり、戸隠神社以前に「九頭龍権現」だったのである。この権現は水神である。高松としては当然の神様である。上のように、長野の戸隠神社には江戸期以前から「九頭龍社」があった。しかし高松のこの権現で、もう戸隠神社が意識されていたのかどうか。あるいは九頭龍権現なのだから、いっそのこと戸隠神社を持ってくることにしたのか、よく分からない。いずれにせよ、
その後、天明年間に(凡そ百八十二年前)、城内から古馬場町の松平家御用商人(両替商)の伏石屋に下賜され、古馬場町の永しへの繁昌を祈り祀らんがために、町内の氏神さまとして百八十年間祭祀をつづけられてきたのである。
御用商人にくれてしまいました……
伏石屋は屋号であり、苗字帯刀を許された高松きっての家格の旧家であり、明治の御一新の後は鈴木家となったのである。
【鈴木家家系図】
鈴木伝五郎 (初代の高松商工会議所会頭)
鈴木幾次郎 (初代高松市長)
鈴木 義伸 (戦中、戦後に高松市長)
鈴木 陽一 (元共同通信社の野球記者・讃岐の近衛公といわれた人)
なんだこれぁ……。すごいぞ、讃岐の近衛公もいるし……。
ある意味全然御一新してない。
昭和二十年の終戦により鈴木家は財産税のために古馬場町の(空襲で焼失した)邸宅地跡を処分したが、その敷地内にある戸隠神社敷地は永久にこれを町内に寄付すると遺言した由。古馬場町の氏子総代故人古川一枝氏(故人、元高松市議・古馬場町内会長)鈴木家に出入りした側近の一人であり、前記の鈴木義伸氏(故人)の遺言を固く信じ、同じ氏子総代の一人だった寒川工務店社長と相談をして、高松空襲で焼失の儘(まま)だった戸隠神社を再建し、毎年、お祭りを欠かさず取行い、これは古川氏の歿後も、他の氏子総代の厚き信仰心と千人といわれる氏子の熱意で年にいたるまで熱烈に継続されている。
こんどは町内に「永久に」あげちゃいました……。やはり、お偉方ではなく、庶民のお金で何とかするしかないのであった!案内板には、再建は昭和五十七年だったとかいてある。
境内社。案内板によると、「鎭玉大明神」と「柳大明神」。詳細不明。