★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

平石井神社を訪ねる2(香川の神社69-2)

2017-10-01 22:25:41 | 神社仏閣
続けて『神社誌』に曰く、
「此処の平石の上に砂を盛りその松を立てゝ神慮を卜せしに、その松石上に根を生じて生長せり」

……普通のところに植えないの?というか、佐藤五郎左右衛門はなにゆえお松窃盗で縛されないの?松も、やたら根を伸ばしてんじゃないよ、空気読めよ。

「官之を検して遂に勧請を許せり。」

……いつの間にか勧請を要求していた佐藤氏。そういえば、木曽の水無神社も、飛騨から強奪してきたものだった。まあ柿が落ちてくるのを受け止めて喰うのと、枝からむしり取るのとの違いである。前者は僥倖。後者は窃盗。なんとなく韻を踏んでいるからまあいいか……。

「依つて平石八幡と唱へしが、松樹の下常に潤を含むを以て祝ひて平石井八幡宮と奉称す。」

……祝うなよ

「国主生駒氏社領を寄進し、」

……生駒さん、軽いねえ、相変わらず決断が。

「松平氏亦二石六斗六尺三合を寄進す」
……もうどうでもいいや。そういえば、「松」と「平石井」、略して「松平」……。

 
境内社もなかなか派手です。まずは、今里天満宮の拝殿と本殿。


左手にある水神宮


その奥にある二社(不明)

  
荒神社と大黒天と不明の神さん

どこかのゆるキャラみたいに見えますね……このタイプのものは。

楽しく、贅沢な神社でした。

平石井神社を訪ねる1(香川の神社69)

2017-10-01 19:33:12 | 神社仏閣
『神社誌』の太田村の欄に載っているのはこの神社の訪問でおしまい。ここを最後に訪問したのは、単に、市街には近づきたくない、でかい神社は資本主義の香りがするからであるが……、というより単なる偶然である。

 
咳してもひとり 狛犬も賽銭


燈籠は慶応三年。


注連石(明治三十二年三月)と拝殿。


すごいぞ、なんだか賑やかに物が沢山。九月の終わりにはこの神社お祭りだったですね……。


拝殿も開いていた。奥の鏡に私の顔が写る。神社めぐりをしすぎて、ついにわたくしも神になったかと思いましたが、びっくりして「何ごとのおはしますかはしらねどもかたじけなさに」と脳裡に坊主の歌が浮かんだので、つい百円も賽銭を投げてしまいました。敵は自分のなかにおります。みなさんも感謝の心を忘れずに生きて参りましょう。


本殿




ここは、市街地の真ん中にしてはすごい森が残ってるな……。樹齢四百年クラスが何本もあると聞いている。

で、この神社の由縁なのだが、碑(一部読めなかったので)や『神社誌』を参照してみるとこれがすごい。

碑に曰く「讃岐國寒川郡今里東脇に鎮座す。村社平石井神社は畏くも應神天皇・神功皇后・玉依姫の三神に坐して其源を尋ぬるに、」


さあ尋ねるぞ……

「今より四百年前後柏原天皇永正五年同郡石清尾八幡神を爰に勧請せるにて」

あのデカい神社から来たか……

『神社誌』曰く
「往古当所は石清尾八幡宮の氏子たりしが、祭禮の時座席の争を生じたるにより、佐藤五郎左衛門といふ者石清尾八幡に参詣し社頭の松一本を伐りて帰り」


座席争いで怒って松を窃盗!

……つづく

楠川神社を訪ねる(香川の神社68)

2017-10-01 18:06:21 | 神社仏閣
高松一高の近くにあります。『神社誌』には、一宮村より奉遷したとしか書いてなかったが、新たにつくられた案内板によると、「一宮神社の素婆倶羅社を合祀して子どもの守り神とした」とあった。「素婆倶羅社は、少彦名神を荒神として古くから疫病の治療をお祈りすれば必ず霊験ありといわれている。(腫れもの神様ともいわれている)」だそうな……。

少彦名神は、大国主と一緒に国づくりをしたお方。なんとも小さい人で、ガガイモの実に乗って現れたのである。小さいっ。みんな、彼はアイヌだ、日本人はそもそも小さいんじゃ、とかなんとか言っているが、――ガガイモの実ですよ、この人、人間じゃあないでしょう。鼠かなんかでしょう。しかし、みどりのマキバオーの例にもれず、大きいのを「こらっ、ウンコたれ犬。馬鹿かお前は、ちゃんと走れ」とかなんとか鼠が指導する例があるように、この鼠が日本を平定したことに疑問の余地はない。タカミムスビはとにかく生めよふやせよの神であって、聞いてみると「確かに私の子である。指の間から生まれてしまったのだ。」と自慢したのであるが、さすがである。手の股からも子どもが出てくるのです。この人の体は血管か何かが産道になっているのでしょうか。ともあれ、だから小さいということなんでしょうけれども、全然大きくなってないやないか、此の鼠は。それはともかく、大国主のように暴力専門のうどの大木とは違い、病を癒やす天才で、道後温泉をみつけたのもこの鼠。さすがです。このコンビの「少と大」の関係を調和的に考えて哲学を語る人もいますが、だいたい小さい人に負けた怨恨が原因でしょう。わたくしはと言えば、大きい奴はわたくしの頭をはたくので幼稚園以来大嫌いです。

ここは、楠川城の跡地でもある。関係ないが、入口にしっかり車止めポールが人ひとり通れるぐらいに狭く建ててあって、横には通報装置まで付いてた。大国主のような巨人が入れないようにしてるのでしょう。さすがです。


入口の右手。後ろには、昭和五十九年の碑。入って正面には平成三年に再建された時の碑があった。


注連石は、明治三十九年。


かなり古いのもあり

 
鳥居と拝殿


燈籠。(昭和四十一年)

 
狛犬(昭和三十一年)

ちゃんと定期的にメンテナンスされ続けている神社と分かった。『神社誌』には、「大正十五年社殿を改築す。大正十二年同町森荒神社(稚産霊神)を合祀す」とあった。森荒神社というのは、出雲にある森荒神社なのかな……


本殿


左奥にひっそりと地神さん。

延命地蔵大菩薩を訪ねる(香川の地蔵9)

2017-10-01 16:59:14 | 神社仏閣
平石井神社神社の西側におります。



記念碑によると、もとは今里東脇の一心寺境内にあった。しかし神仏分離によって西脇に移り、はたまた道路拡張で押し出されてここに落ち着いたという。明治四十二年に堂をたてたらしいが、老朽化したので平成十六年に立て直したのが今のお堂。明治政府とモータリゼーションに詛いあれ。

 

よく見たら小さい赤ちゃんがいるよ……。記念碑によると、立て直した時によくよく調べたら、座像の台座に享保十年とあり、「南無地蔵大菩薩一宇建立文政三年」との書付け板もあったそうだ。



となりに金比羅大権現常夜燈があった。

浪指神社を訪ねる(香川の神社67)

2017-10-01 03:26:38 | 神社仏閣
ここには早く行きたかったのだが、映画を見るついでによりました。この神社のあるところは上福岡町であるが、地元民でない私にとって不思議だったのは、『香川県神社誌』のなかで、なぜわしの家からこんな遠くの神社が、「太田村」の神社として載っているのか、であった。確かに、以前はここは太田村だったのである。明治23年の町制法による合併の時にそうなったらしいのであるが――。細かい事情は分からない。

また、なぜこの神社が「浪指」かも不思議であった。調べてみていないので何ともいえないが、このあたりには、ちょっと北側の御坊川のほとりに川中神社があるのはまあその川に関係あるとして、――北東側に州端神社というのがあって、こちらは浪指神社と共に名前が気になる。つまり、ここは浪や潮が来る境界にあたっているのではないかということである。で、平成16年の台風の浸水地域をみると、やっぱりここらあたりまで海水が来ているのであった。

ちなみに、ここより南の松縄にある「下所遺跡」という七、八世紀の道路の遺構は、この神社あたりまで続いているとみられていて、神社の少し北の御坊川河口あたりに「津(港)の存在が想定されている」。https://www.city.takamatsu.kagawa.jp/file/20736_L72_puregennt-2.pdf


鳥居が新しくなっていた。


天保四年の燈籠。


注連石は昭和一四年。

 
狛犬は、皇紀二千六百年記念。(昭和十五年)


拝殿

 


本殿をのぞむ


興味深いのは、本殿のまわりに堀があることである。昔は、水を張っていたのかもしれないね。


いまの拝殿の下の石には、大正十三年十月とある。本殿の中には、小さい本殿みたいなものがみえる。そのまま古いものを囲ってしまったか……どうなんだろう。

『香川県神社誌』に曰く、

「傳ふる所によれば、嘉永年間平家の軍勢源義経に逐はれ香川郡篦原庄東部の海辺に来り仮睡せし節 神夢ありて、當地は白砂青松海また遠浅なり、風光厳島に劣らじ、汝等奉齋する所の平家の守護神を鎮め奉れと。ここに於て同地一本松に奉齋せり。」

また夢に何かがでおった訳だが、義経に追われた平家の残党が自分の守護神を祀ったことになる。篦原庄東部とはどこらなのかは正確にはわからんが、高松城のあたりが篦原庄であって、まあそこら辺である。「當地は白砂青松海また遠浅なり、風光厳島に劣らじ」とはまた、眠っていたにしては起きてるみたいだが――、ここの地がよほど気に入っていたのであろう。すなわち、平家の彼は、夢を見ていたのではなく、ここらの浜辺に厳島神社を幻視し夢見ていたのであった。厳島神社といえば、平家の守護神である。祭神は市寸島比売命(イチキシマヒメ)。アマテラスがスサノオの剣をかんだ時に生成されたお方。厳島神社の名前は、この「イチキシマ」からきているという説がある。神仏習合的には所謂「弁財天」となったが、これが、泉や湾口に祀られていることはよく知られているけれども、案の定、浪指神社もこのあたりじゃ「弁天さん」と呼ばれている。このあたりの字も「弁財天」という。

続いて曰く、
「今より百六七十年前現今の地に遷し浪指神社と改稱すと云ふ。(讃州府誌 名勝図絵)」

私の妄想だが、厳島神社が屡々台風で被害に遭っているように、この神社も元々あった場所で、大浪によって屡々流されているのではあるまいか。で、安全と思われる地点まで後退させていまの場所に移し、「浪指」とした。で、もともと厳島神社みたいに、海に迫り出してつくってあったのをまねて堀をつくり……




狛犬の口に接近してみた。


境内社は三つある。

  

『神社誌』よると、神明神社、八幡神社、地神社。向かいに「三者拝殿参道敷石 昭和十四年」とあった。注連石、狛犬とともに、昭和十四、五年あたりに今の神社の形が整備されているみたいです。