木太町洲端にある洲端神社がちらっと見えたので訪ねる。
ここは「荒神さん」で、祭神は保食神。
案内板によると、
「昔、神社はここより北の中土手にあったが、いつごろか分からないが、ここに移されたと伝えられている。昭和のはじめごろまでは、祭の日には露天が出て、獅子舞の鉦や太鼓で大いに賑わっていた。」
らしい。昭和一三年の神社誌には、崇敬者20人とあった。鳥居は大正六年。連柱石は明治二三年でした。
ところで、洲端とはスベリと読む。昔は州のヘリだったのであろう。受験生は是非この神社にお参りし、滑って滑って滑りまく、らなくても良いのですが、――自分に相応しい場所に流れ着くことを希望します。大学の教員として思うのですが、自分に合ったところに入らないと非常に不幸なのです。(つまりはだいたいの受験生は不幸なんですが……)就職率がいいとかいう幽霊みたいな理由で入ると、ろくなことはありません。常識的に考えて、就職率を誇っているような大学がまともなわけないでしょうが……
拝殿は、公民館になっております。神様と一緒に考えれば閃きも出るにちがいありません。
可愛い神木
立派な神木
「聖上陛下銀婚式記念碑」「金婚記念碑」……昭和天皇の時であろうか。
境内社の方々(地神さんと鑿井水神社)
鑿井水神社の記念碑もあります。藤原茂氏によるものらしい。
この藤原茂氏かは分かりませんが、藤原茂氏による書「国民精神作興詔書帖」(宮脇開益堂、大13)なんてのも国会図書館のアーカイブには残っています。国民に向かって「軽佻詭激」の風を批判して質実剛健に帰れと命令した文章であり、――共産主義運動やモダニズムなどを批判しているのかも知れないが、これは文字通り、我々がプレッシャーを受けると「軽佻詭激」になることへの恐怖を表現したものと思われる。どうもこの文章は、好意的にとれば「みんなオチツケ」と言っているのであろう、言っている側が一番パニックになっているのであろうが――。例の人間宣言のときでさえ、「詭激ノ風漸ク長ジテ道義ノ念頗ル衰ヘ、為ニ思想混乱ノ兆アルハ洵ニ深憂ニ堪ヘズ」とかなんとか言っているわけで、我々が、アメリカに心底震え上がって軽佻詭激になる――バカになって國がダメになることを知っているわけである。教育勅語なんてのは単独に問題にしても問題だが、そのあとで似たような形ででてきたいろいろなものと併せて考える必要がある。「国民精神作興詔書帖」は、国民精神総動員運動のリハーサルとなった所謂大正期の「教化総動員運動」の大義をつくったもので、『町村教化指導者必携』みたいな冊子には、国民精神作興詔書帖や教育勅語、明治天皇の歌とか年中行事表が併せて入っていた。こういういろいろなものを分析綜合して考察する能力を持っている人は少なく、だいたい「要約するとね」みたいなとらえ方になる。つまり、地震や社会主義を標的(国難)にしてみんなで団結しようとかいう、水神をなだめるために神社を建てたりお祭りやお祈りしたりする発想と全く変わらない――そんな気分に落ち着いた。あとは気休めの人柱(特攻)である。実のところ、我々の「軽佻詭激」はこういう行動にこそあり、それをぼんやりとは自覚しているものだから、それを頑張って深刻な顔で祈るポーズをとることでごまかしているのである。質実剛健と軽佻詭激の実体は同一物なのだ。矛盾や科学や読解に耐えられず、「軽佻詭激」になり、国難だとか口走って質実剛健になる。戦争自体よりかかる我々の心の方がよほど問題である。これは文藝によっても後押しされている傾向であるのだが、明後日授業で述べる予定。
それはともかく、上の碑(昭和二三年)によると、池の水でなんとか耕作していたこの地区の人たちにとって、昭和一四年の大旱魃がもう限界だったらしい。地主や当時の知事の賛成も得て、農林省や県市からにも助けられ一年後に鑿井工事を終える。これは「百年の計」だったのだ、と碑は語っている。これは四十世帯の鑿井物語である。ちゃんと、使った金額までかいてある。実感のある数字であったに違いなく、ここを水神社にしてしまってもここに神的な要素はそれほどとはいえない。
しかし「国難」とかは怪獣じみている。ただ、上の水神とも無関係ではない。
ここは「荒神さん」で、祭神は保食神。
案内板によると、
「昔、神社はここより北の中土手にあったが、いつごろか分からないが、ここに移されたと伝えられている。昭和のはじめごろまでは、祭の日には露天が出て、獅子舞の鉦や太鼓で大いに賑わっていた。」
らしい。昭和一三年の神社誌には、崇敬者20人とあった。鳥居は大正六年。連柱石は明治二三年でした。
ところで、洲端とはスベリと読む。昔は州のヘリだったのであろう。受験生は是非この神社にお参りし、滑って滑って滑りまく、らなくても良いのですが、――自分に相応しい場所に流れ着くことを希望します。大学の教員として思うのですが、自分に合ったところに入らないと非常に不幸なのです。(つまりはだいたいの受験生は不幸なんですが……)就職率がいいとかいう幽霊みたいな理由で入ると、ろくなことはありません。常識的に考えて、就職率を誇っているような大学がまともなわけないでしょうが……
拝殿は、公民館になっております。神様と一緒に考えれば閃きも出るにちがいありません。
可愛い神木
立派な神木
「聖上陛下銀婚式記念碑」「金婚記念碑」……昭和天皇の時であろうか。
境内社の方々(地神さんと鑿井水神社)
鑿井水神社の記念碑もあります。藤原茂氏によるものらしい。
この藤原茂氏かは分かりませんが、藤原茂氏による書「国民精神作興詔書帖」(宮脇開益堂、大13)なんてのも国会図書館のアーカイブには残っています。国民に向かって「軽佻詭激」の風を批判して質実剛健に帰れと命令した文章であり、――共産主義運動やモダニズムなどを批判しているのかも知れないが、これは文字通り、我々がプレッシャーを受けると「軽佻詭激」になることへの恐怖を表現したものと思われる。どうもこの文章は、好意的にとれば「みんなオチツケ」と言っているのであろう、言っている側が一番パニックになっているのであろうが――。例の人間宣言のときでさえ、「詭激ノ風漸ク長ジテ道義ノ念頗ル衰ヘ、為ニ思想混乱ノ兆アルハ洵ニ深憂ニ堪ヘズ」とかなんとか言っているわけで、我々が、アメリカに心底震え上がって軽佻詭激になる――バカになって國がダメになることを知っているわけである。教育勅語なんてのは単独に問題にしても問題だが、そのあとで似たような形ででてきたいろいろなものと併せて考える必要がある。「国民精神作興詔書帖」は、国民精神総動員運動のリハーサルとなった所謂大正期の「教化総動員運動」の大義をつくったもので、『町村教化指導者必携』みたいな冊子には、国民精神作興詔書帖や教育勅語、明治天皇の歌とか年中行事表が併せて入っていた。こういういろいろなものを分析綜合して考察する能力を持っている人は少なく、だいたい「要約するとね」みたいなとらえ方になる。つまり、地震や社会主義を標的(国難)にしてみんなで団結しようとかいう、水神をなだめるために神社を建てたりお祭りやお祈りしたりする発想と全く変わらない――そんな気分に落ち着いた。あとは気休めの人柱(特攻)である。実のところ、我々の「軽佻詭激」はこういう行動にこそあり、それをぼんやりとは自覚しているものだから、それを頑張って深刻な顔で祈るポーズをとることでごまかしているのである。質実剛健と軽佻詭激の実体は同一物なのだ。矛盾や科学や読解に耐えられず、「軽佻詭激」になり、国難だとか口走って質実剛健になる。戦争自体よりかかる我々の心の方がよほど問題である。これは文藝によっても後押しされている傾向であるのだが、明後日授業で述べる予定。
それはともかく、上の碑(昭和二三年)によると、池の水でなんとか耕作していたこの地区の人たちにとって、昭和一四年の大旱魃がもう限界だったらしい。地主や当時の知事の賛成も得て、農林省や県市からにも助けられ一年後に鑿井工事を終える。これは「百年の計」だったのだ、と碑は語っている。これは四十世帯の鑿井物語である。ちゃんと、使った金額までかいてある。実感のある数字であったに違いなく、ここを水神社にしてしまってもここに神的な要素はそれほどとはいえない。
しかし「国難」とかは怪獣じみている。ただ、上の水神とも無関係ではない。