★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

反「復讐のリアリズム」

2025-03-07 23:48:49 | 文学


よしと誉めし装束も、すぢかひ、あやしげにし出づれば、いとどかこつけて腹を立ちて、しかけたる衣どもも着で、「こは何わざしたるぞ。いとよく縫ひし人は、いづち往にしぞ」と腹立てば、三の君「男につきて往にしぞ」といらへたまへば、「なにの男につくべきぞ。ただにぞ出でにけむ。ここには、よろしき者ありなむや」と宣へば、三の君「されば、ことなることなき人もなかるべきにこそあめれ、御心を見れば」と言へば、「さ侍り。面白の駒侍るめり。かうめでたき人も参りけりと心にくく思ふ」など、まれまれ来ては、ねたましかけて往ぬれば、いみじうねたみ嘆けど、かひなし。北の方、落窪のなきを、ねたう、いみじう、いかで、くやつのために、まはししきくせんと、惑ひたまふ。われは、さいはひあり、よき婿取る、と言ひしかひなく、面起しに思ひし君は、ただあくがれにあくがる。よきわざとて、いそぎしたるは、世の笑はれぐさなれば、病ひ人になりぬべく嘆く。

思うに、落窪のお姫様にたいする北の方のいじめは、読者にとって常軌を逸したものであったかあやしいのではなかろうか。姫が助けられて馬面の「面白の駒」が四の君と結婚したりするのは確かに復讐劇の筋なんだが、姫がやってたきちんとした縫い物も供給されなくなって歎いて病になりそうになっている北の方をみて、読者はどこか敗者となりつつある彼らにシンパシーを抱きかねない。

どうも、我々の「判官贔屓」というのは、勝者と敗者がひっくりかえることによって導かれていて、単に負け犬がかわいそうとおもうのとは違う。やったことはともかく負けた状態になればかわいそうに思うという、――自分が負けているからなのか、自分のほうにモノが近づいてくると親近感を覚えているのかも知れない。それは一種のメランコリーではないかと思う。だから、読者は現実には「勝」とうとがんばる。そして北の方みたいなことも平気でやっているのである。

これに比べれると、女優としては完全に勝ってしまったにもかかわらず、人生において日本一空虚だと思っていた高峰秀子様の決断は、安易なメランコリーとは無縁であって、貧乏な助監督だか撮影助手だか(ただしけっこうイケメンではある)と結婚した高峰秀子様がプロレタリアートの味方であるのは確かである。対して、最近、資本家の「嫁」になってしまう美人女優とかが多すぎる。そういえば、日本人の大リーガーの「嫁」はどうであろうか。それは、大リーガーを英雄ととるか植民地から連行されている闘牛士みたいなものととるかによる。

教育学者の鳥山敏子さんてもう亡くなってたことにさっき気付いた。例えば、吉本隆明なんかは、こういうタイプのひとを普遍的な真理に寄りかかっているとみなして批判しそうである。吉本は、判官贔屓のふりをした強者の支配に敏感だった。しかし、吉本隆明信者のなかに、いろいろ長い間「大衆の原像」みたいなもんを見つめ続けた結果、ものすごい大衆蔑視みたいなところにたどり着いている人が居るのは非常に興味深い。結局、吉本の大衆とは、虐待されている落窪の姫様であって、救われた後にいなくなったようにみえた虐げられた人々をさがし、更には落窪の邸宅に隠している狡賢いやつらをどこかに想定していきり立つしかなくなる。いわゆる陰謀論と吉本的リアリズムは表裏一体であって、現実がみえていない者達を見えなくてもどこかに想定するしかない。そして理念を言いがちな人々をその見えない範疇に代入する。

ほとんどがヤクザの支配みたいな状態でも、ときたま過去に示されていたdecencyが勝手に復活することがある。確かにそれが目に入らないほど心が壊れている人たちがたくさんいるにしても。落窪的なシーソーゲームはそういう復活劇をリアリズムのなかに覆ってしまうところがあると思う。