★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

できちゃった政治と芸術

2019-08-07 23:21:09 | ニュース


一政治家のできちゃった婚報告を官邸で記者会見をやっていたがなんともばかばかしい限りである。首相と官房長官に報告してというのが、上司に結婚のご報告をいちいちしている子犬社員と一緒ではないか。わたくしもいいかんじの歳なので、ニュースニッポン(違ったか……)で、急に身をよじって「次です」とこちらを向いてくる滝川クリステル嬢に5ミリぐらいどっきりしたことは確かである。それ以来4ミリぐらいファンであったが、例の「オ・モ・テ・ナ・シ オモテナシ」で、国家に寝返った犬好きの方だと判明したので、1ミリぐらいに減っていたわけであるが、それがよりによって、純一郎の息子とできちゃった婚ということで、いまやわたくしは、マイナス500ミリぐらいのファンである。

この純一郎の息子の記者会見での発言は、よく考えると結構酷くて、「自然にこうなった」を何回か言ったのであるが、その自然とは、「勢い」のいみではなく、自然主義的な意味での自然であって、これではクリステル嬢がかわいそうである。自然の摂理が作用しなければ、結婚しなかったのか?あと、一番酷いのは、

「来年年明けには出産ということになりますけど。そこまで静かな環境の中で、彼女を守っていけるように全力を尽くしたいと思っています」

で、「静かな環境」って、自民党が憲法論議をごり押ししたいときの決まり文句ではないか。あ、そうだ、どうやって「守る」のであろうか。自衛隊ですか?あと、

「愛情深く、心から、自分が親から愛されているということを一点の曇りもなく思わせてくれたからこうやって生きてこれたので。そんな父親になりたいと思います」

もしそんな父親がいたらそれは人間ではないが、「一点の曇りもなく」って、確か、モリカケ問題の言い訳のせりふではないか。そんな微妙な問題を引き合いにだしてイイワケ?

と、ふざけている場合ではなく、この問題は、現在の病理を明らかに示している。政治の話題も愛の問題も同じ言葉を使って平気だというその問題である。シンジロウ氏は自分を「政治バカ」だと言っていたが、全く逆で、彼にはおそらく「政治」が消滅しているのである。安倍首相や麻生にもそれが感じられるが、――政治家という特殊な職業のオーラがないのだ。我々が不安なのは、彼等がバカだからというより、「政治家」を本当にやろうとしているのか分からないからである。残念ながら、多くの野党の政治家にはもっとそれが感じられる気がする。庶民に寄り添うって、もともとみんな庶民ではないか、もはやたいして違わんじぇねえか。ちゃんと違って貰わなくては困るのである。今回の会見を人民から「政治」を更に遠ざけるための陰謀だとみなせるのなら、まだいい。怖れるのは、「自然」にこうなった可能性である。その場合、もはやこれは「出来ちゃった婚」というより「できちゃった政治」と言った方がよい。

例の展示会中止問題も、似たようなところがある。美術作品が、きれいな風景や、美人画や、地元の人と協働してつくりあげる、瀬戸芸における一部作品みたいな(パブリックアート?)ものだと思っている人民の教養のなさを責めてもしかたがないような気が、普通はするのであるが、――どこかで津田氏は自分をこれからは「前衛」と位置づけると述べていたと思うので、明らかにそれはそういう教養のなさにたいして前衛から戦いを仕掛けることが目的であったといってよい。あるいは、いわば、19・20世紀に起こった芸術と国民国家との戦いを再現しようとする試みと換言してもよいと思う。これがしかし容易なことではないのは、その歴史を振り返ってみればわかる。戦後もさまざまな紆余曲折があって、この問題から逃避してきた経緯がある。某百田氏の存在は、皮肉ではあるが、その逃避から生み出されたのである。

ショスタコーヴィチの音楽や、ピカソの絵画や、サルトルの哲学などなどは、政治の恐ろしさを世に伝えているのではない。むしろ、それらは息の長い「政治」を創り出すことに成功したのである。――しかし、彼等の才能と伝統をもってしても容易ではなかった。ある程度、恋人たちと仲間と幸運が必要だった。


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