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夜いたく更けて、みな御琴にやがてかたぶきかかりて御殿ごもり入りたるに、小姫君の御夢に、いとめでたく清らに、髪あげうるはしき、唐絵のさましたる人、琵琶を持て来て、「今宵の御箏の琴の音、雲の上まであはれに響き聞こえつるを、訪ねまうで来つるなり。おのが琵琶の音弾き伝ふべき人、天の下には君一人なむものしたまひける。これもさるべき昔の世の契りなり。これ弾きとどめたまひて、国王まで伝へたてまつりたまふばかり」とて、教ふるを、いとうれしと思ひて、あまたの手を、片時の間に弾きとりつ。「この残りの手の、この世に伝はらぬ、いま五つあるは、来年の今宵くだり来て教へたてまつらむ」とて、失せぬと見たまひて、おどろきたまへれば、暁がたになりにけり。琵琶は殿も習はしたまはぬものなれば、わざと弾かむとも思はぬに、習ふと見つる手どものいとよくおぼゆるを、あやしさに、琵琶を取り寄せて弾きたまふに、大臣聞きたまひて、「こは、いかにかく弾きすぐれたまひしぞ。めづらかなるわざかな」と、あさみ驚きたまひつれど、夢をば、恥づかしうて、なかなかに語り続けず。つねに習ひし箏の琴よりも、夢に習ひし琵琶は、いささかとどこほらず。たどらるべき調べなく思ひ続けらる。
古典文学じゃ、優れた人物は子供の頃から琴や箏がおできになり、漢詩文ができて和歌よめる。いまもこういう人物はいる。ただ、これ以外の野蛮人どもがエリート面しているだけである。野蛮人は、反復練習しか能が無いから、苦行の果てに失神寸前、とつぜん出来るようになるみたいなことがある。しかし、才能のある人は、それを夢でやってしまうのだ。上の「夜の寝覚」の冒頭では、夢にでてきたお姉さんに習った琵琶が、普段習ってる曲よりうまくできるようになってた。夢でかんじた感覚でやったらうまくいったことは私もあるが、音楽ではなく、文章の方であった。
風は遽然私の身にしみて来た。――我ながら名台詞だと思ったが、千曲川のスケッチの一節が口をついて出てきただけだった。凡人においては、結局、天啓と思ったものはこんなものである。