★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

意外性の権威主義

2021-08-04 23:22:46 | 文学


悲田院の尭蓮上人は、俗姓は三浦の某とかや、さうなき武者なり。故郷の人の来りて物語すとて、「吾妻こそ、言ひつる事は頼まるれ、都の人は、ことうけのみよくて、実なし」と言ひしを、聖、「それはさこそおぼすらめども、おのれは都に久しく住みて、馴れて見侍るに、人の心劣れりとは思ひ侍らず。なべて心やはらかに、情あるゆゑに、人の言ふほどの事、けやけく否びがたくて、万え言ひ放たず、心弱くことうけしつ。偽りせんとは思はねど、乏しくかなはぬ人のみあれば、おのづから本意とほらぬ事多かるべし。吾妻人は我がかたなれど、げには心の色なく、情おくれ、ひとへにすくよかなるものなれば、始めより否と言ひてやみぬ。にぎはひ豊かなれば、人には頼まるるぞかし」とことわられ侍りしこそ、この聖、声うちゆがみ、あらあらしくて、聖教のこまやかなることわり、いとわきまへずもやと思ひしに、この一言の後、心にくくなりて、多かるなかに寺をも住持せらるるは、かくやはらぎたる所ありて、その益もあるにこそと覚え侍りし。

むかしから、これだから関東は、とか、京都の野郎はこれだから、みたいなことで盛りあがっていたことがわかるが、――さすが(かどうか分からないが)兼好法師は、京都人を擁護し東国人を批判した東国出身の僧を気に入ったようであった。そして、荒っぽい口調のひとだったが感心した、病人や孤児を世話する悲田院を任されているのはそういうことか、と感心する法師である。この段にみえるのは、AかとおもったらBだった=いいね、みたいな発想であり、そして本当は、京都や悲田院といった価値(いいね)が先取られているためになんの発見にもなっていないのである。

現代でも、やたら自分の不見識を反省してみせる割には、権威主義的であったりするひとがいるが、こういうことである。

今日は、前田利鎌の「宗教的人間」の昭和14年版が本棚の奥底から発見されたので少し読んだが、――内容はともかく、当時の教養主義の魂の実質的なあり方はわたくしの研究テーマのひとつである。教養主義は大学の権威や漱石と結びつけられたりして批判されてきたし、三島由紀夫もたしか学生にむかって教養主義をたたき壊した学生運動はいいね、とか言っていたが――、わたくしは教養主義の魂についての批判にはなっていないと思うのである。

日本のことをしらない西洋派知識人?が大変に愚かな人々であるのは、昔から今まで自明のことであろう。が、デカンショ、いやドゥデリーコーのかわりに古文漢文が代入されてるだけのひともいる。これが果たして教養主義といってよいかというと違うと思うのである。

祖父がめんぱ屋にならずに国鉄に勤めたり、父が国鉄を蹴って大学に行って教師になったりといった果てに私がいるのであるが、――要するに、学徒たることは職業選択の自由の結果みたいなものではないのだ。職業選択の自由的な意識で学徒になったような知識人というのは、なにか教科や題材を選ぶような感覚があるにちがいない。兼好法師のもちいる二項対立の意外性みたいなロジックは、こういう知識人のよく用いるやつである。この人達は対象や認識を生き方と同様、えらべるものだと思っている。

わたくしは一葉の「にごりえ」じゃないが、そういう意味で、三代の恨みを背負っているような人間しか信用していないのである。これは案外、大学人というより庶民によくある認識に違いない。

渡るにや怕し渡らねばと自分の謳ひし聲を其まゝ何處ともなく響いて來るに、仕方がない矢張り私も丸木橋をば渡らずばなるまい、父さんも踏かへして落てお仕舞なされ、祖父さんも同じ事であつたといふ、何うで幾代もの恨みを背負て出た私なれば爲る丈の事はしなければ死んでも死なれぬのであらう、情ないとても誰れも哀れと思ふてくれる人はあるまじく、悲しいと言へば商賣がらを嫌ふかと一ト口に言はれて仕舞、ゑゝ何うなりとも勝手になれ、勝手になれ、私には以上考へたとて私の身の行き方は分らぬなれば、分らぬなりに菊の井のお力を通してゆかう

よく言われていることだと思うが、この部分で急激な変調は「菊の井のお力を通してゆかう」のところで、論理的にはこんなことは出てくるはずはないのだが、吉本隆明風にいえば「関係の絶対性」による情況というものはこんな変調をもたらす。わたくしは、職業教育の危険性にはこういうところにもあると思っている。


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