低い
雨雲の下
日本の六月は
青磁の 浅い手水鉢――
雨がぐんぐん水の天井を押し上げ
縁からあふれ出ようとしている
縁では人々が爪先立って
じっと目をつぶって
水嵩の増す気配を
聞いている
――吉野弘「日本の六月」(『感傷旅行』)
当時読んでもいないのに、生まれた年の作品が好きな場合がある。上のものもその一つのような気がしていたが、いま思うとそうでもない。むしろ「フレンチ・コネクション」とか「ミラーマン」が好きなのが不思議なので、そんな気がしていただけかもしれない。
われわれの世代は、むしろ、野球なんかにおいて、王長嶋の呪縛が少なく、ウルトラマンも再放送で、むしろ怪獣消しゴムみたいなものの収集の記憶があり、――つまり、オタク(マニア)が趣味人化したような世代である。趣味人とは何か。これは、下手すると作品の内容を相対化して「ゲスの勘ぐり」を専門とするような人間に変容しがちだということだ。
ネット上の大河ドラマへの反応を見ていると、――なるほど源氏物語は、本文は読まれずに読者の反応の連鎖が楽しいお話であった、それも最初からそうだったのかもしれないのがわかるような気がする。宮中の空間は、趣味人の集まりだ。つまりゲスの勘ぐりが多い空間だ。紫式部はそんな空間のことをよく知っていたのである。で、ちゃんと読んだ人の中から、若い模倣者や、本居とか折口みたいにもっと奥底があると一人で言い放つタイプが本を書くことになるが、これは結局あまり読まれない。文学作品にたいする反応というのは実に様々で別にそれでかまわないのだが、源氏のように、大きく言えば「ゲスの勘ぐり」を誘発する作品があり、これを好む人が多い時代がある。作品は軽視され同時に祭り上げられる。これは、現代では、テレビが再放送で間を持たすようになった時代から始まったに違いない。それはアクチュアリティからの疎外であった気がする。
小林秀雄は文藝評論家というよりまじめに国学者とでもいたったほうがよいかもしれない。小林が読まれなくなったのも、宣長系だからというのに加えて、小林の文章がどこか瞬間芸的であり、ゲスの勘ぐりに堪える要素を欠いているからである。
その小林秀雄がなんと映画化されるそうである。といっても、長谷川泰子と中原中也との泥沼トライアングルの件においてである。で、長谷川泰子は天下の広瀬すず讓であり、中也と小林はなんかどこかのイケメンである。わたくしをしていわしむれば、むしろ広瀬すずは女の方じゃなく顔の輪郭的に中原中也をやれば良いのではないだろうか。さっき、細に長谷川泰子ってこういう顔なんだけど誰がやるといいと思うってきいたら、1.5秒ぐらいで寺島しのぶと言ってたし。
果たして、文章がゲスの勘ぐりを撥ね付ける類いの哲学者達――小林秀雄、西田幾多郎、鈴木大拙なんかを俳優がやることは可能であろうか。時代はジェンダーレスあるからして、冷静に目を凝らしてみれば、西田幾多郎は、案外、黒木華なんかが似ている。小林や鈴木は似ている奴がいないから、というより普通であるから、もうあれだ、浜辺美波の二役でよろしいのではないだろうか。
閑話休題。同世代と言えば、――『非美学』の後半で引かれている、東浩紀の『存在論的、郵便的』のさいごの決めぜりふ、「それゆえ突然ながら、この仕事はもううちきられねばならない」で思い出したのが、最近の学生のレポートは「突然であるが、この**をご存じだろうか」というせりふで始まるという都市伝説である。香川は都市でないので、見たことはないが、東浩紀氏の言ったことはだいたい逆立ちしたようなかたちである種の流行になる傾向がある。これは世代的な問題なのかもしれず、ここらの世代がアイロニカルに書いたり、ある種の頓挫として出した結論が、あとで地獄的に出現したりすることがあるように思う。他人事じゃねえんだが。そういえば「突然のメール失礼いたします」ならみたことあるわ。そして、『非美学』って『眼がスクリーンになるとき』と主張が妙に似てるな、と思ったら、おなじ著者だった。誠にもうしわけございません。。著者・福尾匠氏のような私より20も若い世代は、私や東氏が問題にしていた空気ではないところから出発している。私は氏が「抵抗」しているところの空気が分からない、いや分かるといえば理解は出来るのであるが、「抵抗」とは抵抗するものへのアンヴィヴァレンツであるから、そのアンヴィヴァレンツが分からないというほうが正しい。
たぶん東氏の書物はいつも見掛けよりも、「抵抗」の書である。今少し話題の「依存」への抵抗である。むかしの左翼だって体感しながらたまにしか成功する気がしないその「抵抗」は、そのアイロニカルな修辞や、否定神学みたいなかたちでしか「結論」を出せない。油断していると、戦後の理念みたいな「結論」に吸収されそうだし、しかし、ほんとうは、もうその「結論」からは疎外されているという嫌な感じである。
しかし、こんな程度の同時代性とはもう仕方がないことである。
さんざ学部時代から言われてきたことを言うと、古文を面白く読んで行くと、もう中国のものを読まずにはいられなくなる、――こっちのほうが重要だ。この呪いのような必然性みたいなものに比べると、破戒を読んでからドストエフスキーに赴く呪いは弱い気がする。ドのほうを最初に読む読者もおおい事情もあるけれども。
まだ大学時代につかった『中国思想文学通史』の年表に載っている作品を半分も読んでねえわ、なさけなや。わたくしは、漢文・古典はどの時代も弱いけど、わしほんと近世が弱い。そこそこ有名な作品は読んでいるはずなのに、読む度にわけが分からなくなってゆくのだ。この認識の混沌に比べれば、同世代の同一性など問題にならない。