★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

分身・感染

2024-04-20 23:37:27 | 文学


Le Faune

Ces nymphes, je les veux perpétuer.

                    Si clair,
Leur incarnat léger, qu’il voltige dans l’air
Assoupi de sommeils touffus.

              Aimai-je un rêve ?


牧神の午後への前奏曲は、この詩から生まれた。こういう文化の生じ方を観察するのが日常の我々からすると、米タイムの「世界の100人」みたいな自閉性は、友達100人できるかな、みたいな自閉性とよく似ている。半獣神が何人いようとどうでもいい。

しかし、われわれは屡々、ひとつとひとつの出会いを群衆として描き出す。それらがなぜ繋がってしまうかは分からないが、たぶん時間が関係あるのではなかろうか。時間が経つにつれて、我々の記憶は分身する。宇佐見りんの小説で、仏像に欲情したみたいな場面があったと思うが、確かに、お寺の仏像は何か冷たくて夏なんか昼寝には最高の椅子みたいに見えてくることはたしかである。しかし、そんなことをせずにわれわれは、100体仏像を並べてみた、みたいなことをする。

そういえば、フロイトのいっているとは別の意味で、我々の言い間違えというものがあり、これも一種の分身である。そういえば、あるひとは、デブ専という単語を知らなかった、で、つい豚専と間違えて覚えて使ってしまったことがあるらしいのだが、人間て怖いよな、、と思うのと同時に、こんなことは日常茶飯事なのだと思うべきなのである。

こういう分身は例えば、感染みたいなものとして意識されており、何かを隠蔽していることはたしかだ。ネモフィラが流行っているので、わが庭に植えてみたことがあるのだが、なんか他の雑草に負けて絶滅した。つい我々は、「朱に交われば赤くなる」とか言いがちであるが、それ以前にだいたい誰かが殺されているのである。


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