背中から撮れなかったから、絵で描いてみた
勉学よりもシャツのデザインに一生懸命の×川大学国語国文学教室4年生の
着てみた
――(接近して、すみません)
【4年生への警×】
「恥の多い生涯を送ってきました。」をみても全くぴんと来ない人間だけではなく、「人間失格」という文字をみても、まったく何も浮かばないような人間がうじゃうじゃいるのが、国語国文学研究室以外の世界である。
こいつはわたくしをいずれ喰う
松本零士の「男おいどん」は私のバイブルのひとつである。九州男児のおいどんは、上京して夜間高校に通う。が、仕事先を解雇されて高校も中退、あとはなんの仕事をやっても続かない。部屋には大量のパンツしかなく、そこからは大量のキノコが生えてくる。
私も、かつて、床が抜けかけ壁から植物の根が見え原稿を書く私の隣に鼠が正座しているような四畳半で暮らしたことがある。本があったから、おいどんに比べれば豊かすぎる環境であったが、おいどんが経験するような、友人も未来もない、だが時間はたっぷりある、という精神状態は知っている。これは非常にリアルな世界であって、高橋留美子の世界とは裏腹だがやはり時間が止まっている。明らかに絶望的だがそれ以外に慰安はない。いや、むしろそれ以外があるのかさえ定かではない。この世界を経験したものは、実際にそれ以外の状態に移行したとしても、現実感を得ることはできない。前にも書いたが、私はまだ予備校の寮とか、つくばのはずれにあった傾いたアパートでうつらうつらしているのかもしれないと思うことがある。
上の場面は、水浸しになったおいどんの部屋の壁が崩れ明治時代から戦前にかけての住居人の落書きが発見されるところである。おいどんはいつもいたのだ。過去の研究をする人間の中には、こういうシュチュエーションを忘れられない人間がいると思う。そうでなければ、過去は単に過去でしかない。
しかしそう思う私にもおいどんにも欠けているものがある。それは行為によって感情を生み出すエネルギーである。
人生幸朗・生恵幸子の動画を見てから、武満徹の「弦楽のためのレクイエム」を聴く。以前は、もっといろいろなものを脈絡なく勉強していたのだが、最近はなにか読んだり聴いたりするとくだらないことが頭に浮かんで時間が経っている。
とにかく物事の繰り返しはよくない。人生幸朗も武満もより面白く聴けるようにはなったが、これも反復には変わりがない。死とは、傷にひっかかって同じフレーズを繰り返すレコードのようなものではないだろうか。本人はまだ生きているつもりなのかもしれないのである。
ニッポンの夜明けではない
屋根にくっつく源氏蛍
ドアに生えた新種茸
And He (Jesus) asked him (the man), "What is thy name?" And he answered, saying, "My name is Legion: for we are many.
ひとりぼっちでいるーとーーちょっぴり さあみぃしいいーーーーーそんな とおーーき こういうのーーー鏡をみぃつうーめてぇーーーー(名木田惠子)
And He (Jesus) asked him (the man), "What is thy name?" And he answered, saying, "My name is Legion: for we are many.
ひとりぼっちでいるーとーーちょっぴり さあみぃしいいーーーーーそんな とおーーき こういうのーーー鏡をみぃつうーめてぇーーーー
北京ではない
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真夜中に「真夜中の弥次さん喜多さん」を読み、しりあがり寿の絵の美しさで柿の木のようになりにけり。
昼間、2000年頃出た東大の『表象――構造と出来事』を読んでいたのであるが、表象文化論というのが、論材の幅広さを獲得しようとして逆に観念的になっていっているのを改めて感じた次第である。子どもがおもちゃで遊ぶとき、確かに楽しさはあるだろうし様々な表象も彼の頭には浮かんでいるであろう。ただ、それは、創作者が自分の能力とキャラクターと物語の枠の限界のなかでものをつくりだすことの広さとは全く異質である。創作者は子どもの快楽のために犠牲になるものである──すなわち、おとなである。研究者や批評家は、そのどちらでもない、私の見たところ、上記のような子どもタイプを除くと、老人タイプか、思春期タイプが多いようだ。
漱石は老人タイプの学者だったが、若返っておとなになりたかったのかもしれない。彼が彼自身にとってはどうでもよさそうな若者を主人公にすえたりしたのは、彼の若返り願望の表れだったのであろうか。むろん、これは、上記の子ども問題に比べればどうでもよい問題である。
こぞ見てし秋の月夜は照らせども相見し妹はいや年さかる(人麻呂・万葉集211)
相手と死別していなくとも、こういう気持ちになることはあろう。実際に歳を重ねないとこういう感情は起こらない気がするけれども。私は、「月夜は照らせども」あたりに、錯乱のたねがあるように感じる。月光に焦点が合わない「月夜は」、といわれていることによって(月夜はそれだけで月光のことであると辞書にはあるけどさ)、頭が一瞬何も動かなくなる感じを覚えるからである。あるいは「月夜」という状況自体がいろいろと照らし出してしまうものなのであろうか。
最近、NHKでハーバード大のマイケル・サンデル教授の授業が何回か放映されて、話題になっているようである。400人ぐらいの大学1、2年生に向かって、「正義」やら「公共性」をテーマとして、プラトンやらカントを参照しつつ、ハーバード大に入ったからといって
(ハーバードの学生が、サンデルの授業の前に、数冊の哲学書を読んだ上で参加する小討論会を含め、猛烈な予習をやらされていて、講義の後も毎回レポート提出が課せられていることをなぜNHKは報道しないのか。コミュニケーションの前に原典講読ですよ。出席している学生の顔色からしてサンデルの授業は比較的他の授業より予習復習が楽なのかもしれぬ……が……)
ポケットに手を突っ込みながら、「はい、そこのきみっ」とあてる姿がりりしく、当然私も先週共通科目の100人に向かってポケットだけまねしてみたのだが、××大学の学生はあまりに授業に集中していたせいか、誰も気づかなかった。
というか、×川大学で××××がサンデル教授になるためには、まずダイエットから始め、頭髪も調整しなければならない。これは、×川大学の学生がカントヘーゲルを読んで私の恋愛小説の授業に参加する以上に難しいであろう。